2021-03-22 第204回国会 参議院 環境委員会 第3号
一番最初、日本でもこの環境が取り沙汰されたのは、やはり公害問題、足尾銅山の公害、こういうところから始まっているんだと思います。環境が悪化、産業の発達に伴って環境が悪化して、それが人的被害まで及びまして、それが社会での問題となって課題となった。これに対処するために、様々な規制や技術開発、こういったもので克服した経緯がございます。
一番最初、日本でもこの環境が取り沙汰されたのは、やはり公害問題、足尾銅山の公害、こういうところから始まっているんだと思います。環境が悪化、産業の発達に伴って環境が悪化して、それが人的被害まで及びまして、それが社会での問題となって課題となった。これに対処するために、様々な規制や技術開発、こういったもので克服した経緯がございます。
森びとプロジェクト委員会という組織があって、ここが、足尾銅山の煙害で木が本当に枯れてしまったエリア、鉱害の大変傷が残った山を、ずっと十年以上かけてこつこつと森づくり、苗木を育て、植えてということで、森が大きく育ちました。
まだその原因というのは私は詳細には確認をしておりませんが、いずれにしても、これから、自然と共生をして経済と環境が一つになる、こういった時代が来る中で、先生が取り組んでおられるこの足尾銅山跡地の森づくりのプロジェクト、宮脇先生も関わられているということで、私も、東日本大震災の復興の過程で、宮城県で一緒に植樹をさせていただいたこともあります。
我が国では、足尾銅山鉱毒事件辺りから環境と工業化というものの対立概念というものができていって、戦後も、四大公害を始めとして経済活動と環境というものが対立概念として意識せざるを得ないファクターとして登場してきたというふうに思います。
一次的マイクロプラスチックというのは、海洋中にあるのは全体からすれば一%なので、まだまだ見かけが少ないかもしれませんが、例えば、一例を言えば、最初の大被害であった公害の足尾銅山なんかも、大臣、あのころは環境省があれしておりましたけれども、百年たった今でもいろいろな問題が残っているんですね。でも、最初の段階から入っていっていれば大きな被害にならなかったなと。
さかのぼれば、明治時代の足尾銅山、昭和三十年に初めて報告のありました四大公害病のイタイイタイ病、そのように農用地の汚染から始まった我が国の土壌汚染問題ですが、顕在化するまでに必ず農作物とかの異変や生態系の異常があり、自然は私たちにそういう形で警告をしてくれてきた。
これは環境委員会ですからEということにしますが、我が国においては足尾銅山の鉱毒事件から始まり、戦後の四大公害から現在の東電の福島の原子力発電所、そういった環境に対する大きな負荷といいますか、そういったものを企業の経済活動が結果として与えてしまったと。それによる外部経済性がそれまでの稼いできた利益を帳消しにする、それどころか逆に大きな損失を生んでしまうと。
大昔でいうと、日本国内でも足尾銅山の問題とかありましたが、そんなことはもう今はないと思いますが、しかし、それにしても、チリ国内での環境基準と日本国内での環境基準、やはり差はあるんじゃないですか。
そこで、私は豊かさということになぜこれをつなげていきたいかと申しますと、もう一つ環境問題の原点に足尾銅山の鉱毒事件があります。 私は、つい最近、新潟大学の大熊孝先生が書かれた「利根川治水の変遷と水害」という本を読んで、実は慄然としたんです。
日立の方でも、やっぱり農作物の被害、森林の被害ということで、これは足尾銅山は明治二十二年のころでしょうか、そして日立の方は少し後れておりまして明治四十二年のころ、日清戦争の直後だろうと思いますが、そのころに大変な問題がございました。
そこで、大臣にあともう一つ申し上げれば、今大臣のお言葉にありましたが、足尾銅山で働いた方々、既に七十代、八十代となっておられますが、決してそこにもういないわけではございません。そして、そういう労災病院の機能をどこか専門的、集中的に、例えば北海道の美唄の方に持っていこうと思っても、患者さんはそこに持っていくわけにはいきません。足尾の山奥から美唄まで運ぶわけにも送るわけにもいかない。
きょう、大臣のお手元に、この統廃合の対象になりました栃木県の珪肺病院、いわゆる日光とか鬼怒川とか川治という温泉地域にございます珪肺病院で、昔は足尾銅山の採掘、あるいは、その近辺一帯、鉱業の盛んなところでございましたから、そこで生じた珪肺病院が廃止されると去年の十二月伝えられたということで、きょう、地域の約十一万人の方の中から五万五千三百六十三名でございましたか、大臣にあててこのような要望書が出されてございますが
我が国におきましては、古くは足尾銅山の鉱毒事件でありますとか、あるいは昭和三十年代、四十年代に特に顕著でありました大気汚染あるいは水質汚濁に伴う公害の発生ということがあったわけでありますけれども、まず最初に、我が国における公害の歴史といいましょうか、の概括について総括をしたお話をいただきたいと思います。
皆様も御存じのとおり、足尾銅山の鉱害問題解決のために、生涯をその問題にかけました偉大な人物でございます。 この田中正造翁が足尾銅山問題で天皇に直訴いたしましたのが一九〇一年十二月十日でございました。それから百年余が経過いたしております。
私ども栃木県は、明治三十四年、有名な田中正造がいわゆる直訴をして、足尾銅山の鉱毒問題について明治天皇に直訴した、それからちょうどことしは百年を迎えるわけでありますが、そういう中で私どもの県では、特に渡良瀬遊水地などの広大な湿地の再生を目指していろんな活動を、今NGOを含めて、自治体も含めて、あるいは国土交通省も含めて取り組まれようといたしております。
このお二人の理念といいますか、それをこの社史の中から酌み取りますれば、特に黒澤氏は足尾銅山の鉱毒事件で被害に遭われた農民の方々に対して農民救済運動という形で若いころ活躍をされた方でありますので、その方の理念といいますのは、北海道でありますから、デンマーク農業を通して、酪農を通して農地を豊かにしていく、健土健民、豊かな農地をつくり、豊かな農民をつくっていくという理念のもとでの雪印、組合の設立であったのかな
県境で足尾と群馬はすぐ隣になりますから、足尾銅山の風景は見ていらっしゃると思うんですね。御存じですね。 それで、足尾には、いわゆる銅山の製錬所、銅の精製のために大変な鉱害問題を引き起こした地域でもあるんですが、松木沢という広大な岩肌の山岳地があるんです。
御承知のように、足尾銅山の鉱害の問題で、渡良瀬川流域住民の立場に立って、必死になってその対策を訴え求めて、頑張ってこられた栃木県の先人でございます。義人とも言われている方でございますけれども、その田中正造は、真の文明は、山を荒らさず、川を荒らさず、村を破らず、人を殺さざるべし、こういう言葉を残しております。
○町村国務大臣 今、小林委員から、良寛ら田中角栄まで、幅広い、歴史的な洞察に立っての、あるいは足尾銅山のお話等々、大変感銘深く、また考えさせられる御質問をいただきました。
また、今まで日本が経験をしてまいりました水俣の問題、それから足尾銅山の問題、さまざまな公害にやられました経験というものは、公害対策先進国として、これは途上国の公害対策、環境保全対策に対して十分に生かしていく必要があると思いますし、ODAの関係もありますけれども、その中でさらに前向きに取り組んでいくべきであるというふうに考えております。
かつて足尾銅山のはげ山の修復などの問題もありました。みんな同じような問題を抱えています。この陶土採掘跡地に見られるように、木の伐採、開発、陶土の採掘のもたらす問題というのは、地方だけに処理を任せるのは無理がございます。環境庁として、このような事態に至った環境調査を独自にお願いしたいと思いますが、大臣、いかがでしょうか。
例えば、有名な足尾銅山の鉱毒被害の場合には、山元での対策が不十分な上、廃水によって生じた深刻な農業被害の拡大防止や回復も行わずに、かえって被害民との小額での永久示談、さらには、被害を被っだ下流の谷中村に土地収用法を適用し遊水池化を進めたのである。
渡良瀬遊水池の問題は、足尾銅山の中で有名な田中正造翁が非常に頑張ってきて、谷中村という村を一つあそこから陸に上げて、そしてそこに三千三百ヘクタールの遊水地をつくった。ここに建設省が一期工事、二期工事、三期工事という工事を区画をしておりますが、一期工事ができ上がって二期、三期は今準備中ですね。