1981-05-07 第94回国会 参議院 商工委員会 第8号
それからいま赤平炭鉱が旧赤間炭鉱の隣接鉱区を開発すれば、これまた延命策につながっていく、旧豊田炭鉱の再開発は可能である、こういう問題が出てきます。あるいは夕張炭鉱当てはめますと、私は炭鉱マンだから言うんだけれども、たとえば旧鹿ノ谷沢鉱をあるいは周辺開発をしていくと、これまた現在の新鉱の過程に直結していくことができる。
それからいま赤平炭鉱が旧赤間炭鉱の隣接鉱区を開発すれば、これまた延命策につながっていく、旧豊田炭鉱の再開発は可能である、こういう問題が出てきます。あるいは夕張炭鉱当てはめますと、私は炭鉱マンだから言うんだけれども、たとえば旧鹿ノ谷沢鉱をあるいは周辺開発をしていくと、これまた現在の新鉱の過程に直結していくことができる。
ことにこの時期におきまして、すでに御存じのように、一月には石狩炭鉱が閉山され、二月には赤間炭鉱が閉山される、三月には三美炭鉱が閉山される。また、ただいまの状況の中ですでにいつとはなしに奈井江町にあります滝口炭鉱が閉山になって、遂に総撤退をしてしまいました。
三月には赤間炭鉱が閉山になりました。三月には美唄の三美炭鉱が閉山になりました。いずれも一カ月ごとに一山ずつ閉山になっておるわけです。そしていま炭鉱の閉山の危機に迫られておるといわれておりますのが夕張の三菱の大夕張炭鉱、これは千六百名ぐらいの鉱員を擁しておる大手の山であります。また北炭の平和炭鉱も千名近い山でありますが、これも一年以内に閉山をされる。
〔委員長退席、渡辺(惣)委員長代理着席〕 第二点は、赤平の赤間炭鉱の閉山によって、転職をして技術を学びたいというわけで、職業訓練学校に行こうとしてだいぶ希望があった。ところが、隣の滝川という市に職業訓練学校があるのだけれども、収容人数が足りないために約三十人以上の人が入れないのです。こういう問題についてはどういうようにされますか。
それから赤間炭鉱の場合は、昨年の七月に自然発火をいたしまして主要部分がなくなりました。なくなった時点では、私はその当時担当ではございませんでしたが、その後も掘るところがあまりございませんので、どうやってあとをつないでいくのだろうかというふうに、われわれとしては心配をしておったわけでございます。
空知炭鉱と赤間炭鉱とを連絡いたしまして、石炭の運搬の合理化をはかるためにつくりましたものでありまして、長さは二千三百メートルございます。それから、運びましたものを選炭機に持ってまいりまして、全体を集約しようというふうなことでやったわけでございます。 着工は、四十年の十一月に着工いたしまして、四十七年の一月に完成をいたしたわけでございます。
このことは、私ども本年に当たりましてから、相も変わりませず閉山の提案を受けておりまして、本年では赤間炭鉱の閉山、三美炭鉱の閉山、これを余儀なくされているのであります。そういう実情から判断をいたしますと、この五次政策の精神である五十一年度二千百万トンを維持するという体制については、すでに今年において崩壊をしているのではないのか、こういうように思うのであります。
最近、あの災害に見舞われてつぶれた石狩炭鉱は別といたしましても、赤平の赤間炭鉱など五、六百人の規模の、中の山でありますが、十二月の末閉山というのが行なわれて、二月の下旬、末日に、二カ月前後で閉山になってしまいました。三美炭鉱も同様であります。三月三十一日に閉山を受け入れてしまいました。 なぜ簡単に山がつぶれていくのかということは、一つは、炭鉱労働者がその見切りをつけた経営者の熱意のなさ。
それからもう一つは、閉山後の状態については、御承知のように、三菱美唄炭鉱の場合、あるいはその他赤間炭鉱の場合もしかりですが、そういうように閉山をしたあと地の産炭地の振興の問題については、政府はそのときはいろいろなことをおっしゃるけれども、実際は、思ったようにはほとんど進んでおらない。特に美唄炭鉱の場合は、当時通産大臣であった田中現総理は、工業再配置第一号にいたしますまではっきり言ったんです。
これが終わらないうちに隣りの赤平の赤間炭鉱が閉山宣告を受けて、これが二月二十七日にうやむやのうちに閉山せざるを得ない状況になり、さらに三月三十日に美唄の三美炭鉱が閉山になるという状況であります。幸いにも目下石狩炭鉱を除き、赤間炭鉱にいたしましてもあるいは三美炭鉱にいたしましても、災害を伴わないで閉山になるのですから、条件が若干違います。
○佐伯政府委員 石狩炭鉱につきましては、先ほど公害保安局長から申しましたとおりのような状況で、閉山のやむなきに至ったわけでございますが、赤間炭鉱につきましては、先生御指摘のように、空知部内とつなぎまして大いにやっていこうということでやっておったわけでございますが、深部に参りましたところが、きわめて断層が多くなりまして、かつまた、炭層が貧化をしてきたという事態になってまいったわけでございます。
――――――――――――― 二月九日 石炭対策並びに産炭地域振興に関する陳情書 (第四五号) 石炭産業の安定及び緊急対策に関する陳情書外 二十二件 (第一四九号) 赤間炭鉱存続に関する陳情書 (第一五〇号) は本委員会に参考送付された。
現に雄別の場合でも茂尻炭鉱の場合は千五百人とにかく労働者が働いておる相当規模の山でありながら、北炭の赤間炭鉱との鉱区の調整ができないという事実、どれだけ通産当局は鉱区調整に努力したか、私は事実をこまかな点まで知りません。しかし、札幌通産局としてはかなり努力した形跡があるにもかかわらず、現実にこの鉱区の調整が行き悩んでおるところに今度の大災害が出てきて、二重の苦しみが起こってきておる。
すなわち答申後各炭鉱の会社側は、たとえば赤平市の赤間炭鉱は山を守るために正月返上を労働者に押しつけ、年末の二十九日の日曜日に出勤すれば三百円、正月の三日に出勤すれば五百円の商品券を出すといって督励しました。三菱大夕張では昨年暮れ答申に見合う合理化計画を会社が非公式に示し、大問題になっております。その内容はどんなものかといいますと、安全委員の定数を半分に減らすというのです。
この会社は、昭和三十八年九月に北炭から分離いたしまして、その後、四十年に赤間炭鉱と合併して今日に至っております。出炭量は、会社全体でおおむね月大体七万三千トン程度の炭鉱でございます。 次に、操業状況は、現在、空知炭鉱は空知本坑と興津坑、赤間本坑及び末広坑という四炭坑に分かれておりまして、この主力は今回災害を起こしました空知本坑でございます。
次に、操業の概況を申しますと、まず、会社でございますが、この炭鉱は昭和三十八年九月に北炭から分離、さらに昭和四十年の七月に赤間炭鉱と合併をいたしまして今日に至っております。資本金は一億円でございます。現在のこの炭鉱は空知本坑と興津坑、赤間本坑及び末広坑という四つの地区に分かれておりまして、今度災害の発生した個所は空知本坑で、これは空知炭鉱の主力の出炭の区域であります。
ところが、同じ資本だから電話で連絡し、あるいは頼みやすいかもしれないが、赤間炭鉱から五名頼んできておる。隣りに大規模な救命器隊があったにもかかわらず、はるばる遠くから、いかに自分の系統の山であるから頼みやすいといっても、人命に関することだ、なぜすぐ隣りから救命器隊の応援を依頼しなかったか、ふしぎだ。特にお聞きしてみると、あなたの配下の監督官が入っておる。
○阿部竹松君 その次にお尋ねしたいのは、その空知炭礦株式会社というのは、三十八年に北海道炭礦汽船株式会社から分離され、その後またまた同時に分離された赤間炭鉱とまた合併している。離れたりまたついている。
会社の概要でございますが、この空知炭礦株式会社と申しますのは、昭和三十八年九月に北海道炭礦汽船株式会社から分離をいたしまして、さらに四十年の七月には赤間炭鉱と合併いたしまして今日に至っております。資本金は一億円でございます。 どういう操業をやっておるかと申しますと、空知炭鉱は、空地本坑、興津坑、赤間本坑及び末広坑の四つの炭坑に分かれております。
昭和三十五年以降、第二会社化あるいは租鉱権炭鉱に落とされた私ども炭労関係の炭鉱は、北炭の万字、美流渡、それに赤間炭鉱、住友では潜竜、忠隈炭鉱、三菱では飯塚炭鉱、古河では昨年峰地炭鉱が第二会社にされております。これらの炭鉱はいずれも、先ほど述べましたように、たくさんの炭量を埋蔵いたしております。たとえば北炭三山の炭量合計は、理論可採炭量で八千万トンあります。