1955-07-13 第22回国会 衆議院 運輸委員会 第28号
運輸省に賠償課を設けた、損害賠償であるならば、国民的感覚は、必ずや人命の点につきましては多い方がいいのだ。ビキニの人命補償以来、人命の補償の金額が上りつつあることは好ましいことだ。
運輸省に賠償課を設けた、損害賠償であるならば、国民的感覚は、必ずや人命の点につきましては多い方がいいのだ。ビキニの人命補償以来、人命の補償の金額が上りつつあることは好ましいことだ。
第二の歴史は何であるかと言えば、保険会社を入れるこの法案ならば、しかも大蔵省は賠償課を運輸省に設置する千八百万円の費用だけは出す。社会保障である。大体社会保障制度に対しては、原則としては事務費を全部政府が出しておる。労災関係は特殊の工場及び資本家の関係でありまして、その他の社会保険に対しては、給付の補助まで今出しておるのであります。さらに事務費は全額補助である。この性格はすなわち社会保障である。
ありということを認定した以上は、その人の生活状態、あらゆる状態から見まして、裁判所はこれを決定するのでありますけれども、裁判所の決定のときにおいては、私が個人の会社であるときにおいては、私の負担能力並びに個人の事業関係のあらゆるものを総合をいたし、その被害者の家族等いろいろのものを総合してきめるのでございますが、そのきめる基準となるべきものは、国家管掌をいたしておるところのこの無過失損害賠償者である運輸省に賠償課
二十七年の四月に、平和条約の発効の前後、賠償課がなくなりまして、国有財産第二課長というのの専任になりました。昭和二十九年の四月に理財局の資金課長という職にかわりました。五月に機構改革がありまして、理財局の地方資金課長というのを命ぜられまして、今日に至つております。
○小田証人 実は商工課がこの仕事を初めからやつておつたのではございませんで、賠償課という課がございまして、井上さんというのはこの陸奥に関するときの初代賠償課長でございます。それから彌源治さんが賠償課長になりまして、機構改革をやりましたときに賠償課を解散いたしまして、商工課の中に包含した、こういうことでございます。
それから交渉は別に持つという話をしたのですが、そのときが組合と私たちと直接話のできた最後であつて、その後はもう知事と共同闘争委員会との話合いになつて、そうしてこれもうわさですが、何か知事に、自分が直接出て來なければ、代理人とでは話をせぬというようなことを共同闘争委員会は言つたとかいう話で、十一時ぐらいだと思いましたが、懸の賠償課の人から知事の命令で、全員退去させろということを会社の所長から傳えろと言
○板垣證人 平時にこの争議の始まる前までは、軍政部並びに懸の賠償課と話合いをつけまして、たとえば日常出入りします商人であるとか、お得意さんであるとか、こういう人は始終参りますから、これを一々許可を得ていたのでは非常に事務が煩雑になりますので、そういう人は特に許可をしてもらつて、所長限りで入れさしてもらつておりました。通行証も出してはおりますけれども……。
ところが事実上そういう状態にあつたにかかわらず、佐世保市はあらゆる方面に運動いたしまして、この資材をぜひ手に入れたいということで、当時長崎縣廳佐世保出張所あるいはその賠償課に運動いたしました結果、この問違つて認められた申請認可書を收竄し、地区も変更いたしまして、名儀を使用にたえざる海底ケーブル線二巻ということに限定改竄したのであります。
縣廳職員がとつた分は、縣職員會が一萬五千九十點、縣の厚生課が千五百七十五點、衞生課六千五百點、建築課三千八百點、渉外課七百十八點、賠償課千五百三點、砂利採取所千九百九點、農地課五百點、開拓課三千點、耕地課三千點、林務課六千六百點、土木課六千二百點、教學課一萬三千九百八十點、警務課四千五百三十點、こういうものを縣廳内部においてわけておる。