2009-04-08 第171回国会 衆議院 消費者問題に関する特別委員会 第12号
先ほど妹尾先生からはいろいろな現場の御苦労を話していただきましたが、私の徳島県の出身でもありますから、賀川豊彦先生が頑張っておられた、その気持ちを気持ちとして、皆さん方がさらにそれを大きく広げていただいたことに感謝を申し上げます。 全員の先生にお聞かせをいただきたいんですけれども、先ほど生水さんが言われた、いろいろな現場の悩みというのはたくさんあろうと思います。
先ほど妹尾先生からはいろいろな現場の御苦労を話していただきましたが、私の徳島県の出身でもありますから、賀川豊彦先生が頑張っておられた、その気持ちを気持ちとして、皆さん方がさらにそれを大きく広げていただいたことに感謝を申し上げます。 全員の先生にお聞かせをいただきたいんですけれども、先ほど生水さんが言われた、いろいろな現場の悩みというのはたくさんあろうと思います。
不正、不当な行為に対して、民法第八百二十二条が規定しているように、必要な範囲内で子供を戒める懲戒やしつけは、目先の利益ではなく将来の利益につながる正当な教育行為であり、子供には、賀川豊彦の言うしかられる権利もあることを忘れてはなりません。 子供の反抗期に父親が壁になることによって、秩序感覚やルール感覚が育ちます。
それから、先ほども御紹介しましたが、賀川豊彦先生の子供はしかられる権利がある、これは裏返して言っておられることだろうと思いますけれども、やはりそうしたしっかりとしたいいしつけ、あるいはしかられ方というものができないと人間形成に大きな問題があるということも言われております。
実は、賀川豊彦という有名な宗教家がおりますが、その方のお言葉として、子供はしかられる権利があるという有名な言葉があります。したがって、やはりある意味では大人がしっかりしかってあげるということも必要ではないかなという気もいたしております。
例えば東京都におきましては、クリスチャンの賀川豊彦さんが設立した中ノ郷信用組合というのがあるんです、小さな信用組合ですよ。預金も小口だけれども貸し出しも小口。しかし、東京都はモデル的な信用組合として一生懸命育てているんですね。大臣、こういう地道な努力もあるわけなんです。
賀川豊彦は、十一時五十八分、関東大震災発生を知るや、午後四時、神戸港に浮かぶ山城丸に乗り込んで、救援ボランティア活動のために東京に向かっております。 今、後藤新平、寺田寅彦、賀川豊彦等、歴史に残る先人の当時の御活躍をしのぶものでありますが、こうした教訓が政府の災害対策上ほとんど生かされていない。
実は、神戸は、大正九年、賀川豊彦氏があそこで消費生活組合活動を訴えて、そしてあそこに組織をつくられた日本の生協運動の発祥の地であり、また消費省運動の発祥の地でもあるというふうに私どもは認識しております。兵庫県全体でも大変な組合加入率というものが、想像できないような組合加入率があるわけです。芦屋市に至っては一一五%の組織率というか加入率。
これは、先生が初当選以来私淑していた三木元総理の「信なくんば立たず」の政治姿勢に傾倒されたこと、また、先生が若いころに、社会運動家として有名な賀川豊彦氏の影響を受けたゆえと考えられます。 先生は人の心をじんわりと温める政治家であり、丹羽兵(にわひょう)さんの愛称で親しまれ、長老になってもおごらず、庶民性を失われませんでした。
昭和十三年二月、日比谷公会堂において、あらゆる妨害にもめげず、賀川豊彦氏、菊池寛氏らとともに「日米戦うべからず」と銘打った国民大会を開催し、会場を埋め尽くした聴衆を前に堂々と非戦の論陣を展開されました。その後、金子堅太郎氏を会長とする日米同志会を結成し、両国関係を憂慮する同志とともに日米開戦反対運動の先頭に立って奮闘されたのであります。
そのときにちょうど農協運動の親とも言われました賀川豊彦が私の町の会津においでになりました。そして講演のときの開口一番、皆さん、きょうは日本が歴史上革命的な事件のあった翌日なんですけれども、何ですかと言われた。だれもわかりませんわな。
非常に私は注目をしておりますのは、その中にはもちろん武蔵野市の福祉公社もございますが、これからのいろいろな動きを考える上でかなりおもしろいと私がひそかに思っておりますのは、賀川豊彦先生が始められました灘神戸生協が、暮らしの助け合い活動ということで生協活動の中に社会福祉の相互扶助の活動を繰り込んだような活動を昭和五十八年から始めております。
さっき申し上げた尾崎骨堂先生であるとか、あるいは国会議員ではありませんけれども賀川豊彦先生なども一緒に参加をしてつくり上げたのが、この国会委員会であったわけであります。 そして、ぜひ国会の決議でこの世界連邦をつくろう、こういうことで提案をいたしました。
私も長年神戸の新川の、昔賀川豊彦さんがやられておった地域で、あのドヤ街の中で診療活動をやっておりましてそこの実態はよく知っておりますけれども、大変だろうと思うのですよね、それに輪をかけた形があいりん地区で存在しておるわけですから。
しかし、賀川豊彦先生が灘に一粒の麦を落としなさって、あれから何年たっているか。その伸び率を一ぺん見てください。先ほどここ一両年の間に二万戸ばかりふえたとおっしゃった。けっこうなことです。好かれればこそお客がふえるのです。しかし、その間にデパートは一体何ぼ伸びたか。もうかったればこそ伸びたのです。
そのころ、神戸において、賀川豊彦氏が友愛会を指導しておられました。佐野君はたまたま彼の著書「死線を越えて」を読んで賀川氏の思想と人柄に引かれて、友愛会のメンバーとなり、賀川氏の指導を受けたのであります。この賀川氏との出会いは、佐野君の生涯を貫く生活態度に、精神的な強靱さを与え、正義と人類愛に生きる人間味がつちかわれる契機となったのであります。
と申しますのは、問題は、私にとっては賀川豊彦さんがいいのか、徳田球一さんがいいのか、こういうことはかかってだれに選ばすか、だれがそれをふさわしいと思うかという、この機関を作らすことが問題だ。
松浦労働大臣は、人柄がいいという話だし、賀川豊彦さんの影響さえ受けておる人だというのでありますが、しかし、人柄がよくってもその言動というものは、この大切な時期に、何という軽率な発言かと感じております。私は政府の責任あるある要人からも聞いております、名前は出しませんが。
そこで、私昨年の夏内地へ参りました瀬長亀次郎氏とともに遊説をして歩きながら、こうしたデータを、しっかりしたものを持って、私自身も昨秋アメリカへ参りましたので、その機会に話し合ってみたい、さらにまた、アメリカは非常に宗教家の言を重視いたしまするから、国際人でありまする賀川豊彦などに特に行ってもらって、これらの問題を米国民に訴えるという方法が必要ではないか、こういうことで実は準備をしたことがございます。
かつて民間代表として賀川豊彦氏が渡韓の希望を持って総理と面接なさいました際は、積極的な賛意はなかった趣きでございますが、今日の情勢においては、いかにお考えになっておられるか。民間代表の派遣についての御見解を承わりたいと思います。 第三番目に、日本の国連加盟は年内実現を見る段階にありますが、隣接国として南北朝鮮の統一は重大関心のあるところであります。
そして、それにつきましては、多分先生の立場といたしまして、それは個人の意見であって聖公会の意見じゃない、こう逃げられるかもわかりませんけれども、この問題を放置できないじゃないか、立正交成会には聖公会のようなそういうものではなくて非常に規模の大きな印刷局があって、そうして一たびこれを発表するならば致命的になる、実はこの問題の取扱いについて、キリスト教新聞というものがございまして、確かに賀川豊彦氏がこれを
こういう意味での話を会談の内容にしていただきたいという希望が一つと、それからもう一つは、政府では相当この問題については努力はしておられましょうけれども、アメリカの世論を喚起するために、民間外交として米国内で相当知られている、たとえば賀川豊彦、鶴見祐輔、私はその他の人は知りませんが、とにかくアメリカ人に名前を知られている人を相当の費用を使ってアメリカに出すという考え方はどうだ。