2000-08-09 第149回国会 参議院 法務委員会 第1号
そして、この記事を取材した記者のもとに、古賀一馬さん、元警視庁巡査部長、興信所社長から電話があって、その記事はとめられないのか、ほかのネタを提供するからというのがあったようです。 つまり、現職と退職をした警官が一体となって警察の中にある情報を売り買いし金もうけをしているということが言えると思うのですが、いかがですか。
そして、この記事を取材した記者のもとに、古賀一馬さん、元警視庁巡査部長、興信所社長から電話があって、その記事はとめられないのか、ほかのネタを提供するからというのがあったようです。 つまり、現職と退職をした警官が一体となって警察の中にある情報を売り買いし金もうけをしているということが言えると思うのですが、いかがですか。
それから、一番最初は週刊プレイボーイという雑誌で報道されたところからこれは端を発しているのですが、この記者に聞きますと、取材最中に古賀一馬という元警視庁巡査部長から、記事を取りやめろというような電話が入っているわけです。というように、これはどう考えても一体化して個人情報で商売しておるとしか考えられないわけですが、長官、その点が一点。 そしてもう一点は、盗聴に対する依頼も来ています。
がよくあるということはお認めになりましたが、最近発行された週刊朝日では、この交通違反もみ消しの事件で関係者が逮捕されたということで、「これで逮捕なら警官半減、議員秘書いなくなる」、そういう見出しで「永田町の悲鳴」というような記事が出ているわけで、その中に、私が指摘したように、こういうもみ消し依頼というのは日常茶飯事じゃないかということに対して、警察庁の広報室は「「ご指摘のようなことはまったくない」と否定するが、元警視庁巡査部長
昭和二十七年に警視庁巡査から国鉄本社文書課に採用された。いまだかつて、早稲田大学中退と称しているけれども、早稲田実業中退の人間が国鉄文書課に採用されたというふうな事実はあるんでしょうか。しかも多くの五十万近くの国鉄職員の三十年、三十五年つとめたところの栄光の道というものは、最後は助役、この程度がせいぜい一ぱい。彼は最後はどこまで行きましたか、地方でいえば部長まで行った。
そのころ鹿児島で、「警視庁巡査と近衛兵なけりゃ、花のお江戸へおどり込む」、そういう歌がはやったそうです。百人余りですよ。
負傷しました警官は二名でございますが一人は三十五才になります松田巡査で、この巡査は鹿児島県の出身であり、十年前に警視庁巡査を拝命しておるのでありますが、負傷の程度は、爆風でひどくやられまして、顔面はほとんど全部、両眼、耳等も非常な故障を起しております。あるいは両下肢の方も、あるいはガスのためでありますか腹部が非常にはれております。
それから又従来三多摩の国警、自警の警察官というものは、昔警視庁におつた関係上、警視庁というような名前に憧れておりまして、同じ名刺を使うにも、東京都巡査よりは警視庁巡査のほうが非常に誇りを持つといつたような、まあつまらないことでありまするが、そうしたことからいたしまして、従来から警視庁に入らしてもらいたい、かような希望が非常に強く起つております。
それから又御記憶に新たな荒川の、小学校の女教師が夫である警視庁巡査を殺したという事件のごときも、これも死体のこま切れの一部が浮び上つて来てだんだんわかつて来た事件で、これも捜査としては非常に困難な事件であると思う。これにつきましても警視庁の捜査一課は非常に綿密な捜査をして、結局犯人の目ぼしをつけて、諸般の証拠を集めて目ぼしをつけてこれを逮捕したというので、非常によく行われております。
鈴木 安孝君 長谷山行毅君 岡部 常君 吉田 法晴君 一松 定吉君 羽仁 五郎君 事務局側 常任委員会専門 員 長谷川 宏君 常任委員会専門 員 西村 高兄君 証人 本富士警察署長 野口 議君 警視庁巡査
そうして事もあろうに警視庁巡査が物凄く出動しておるのです。正面スタデイアムの向う側を見るとがら空きになつておる。そこに行つて見たところが警官招待席といつて何百も空けてある。こういうような事態を私は見て、果して名誉総裁に大臣はなつておりますが、社会教育局長あたりで指導されておりますが、一体どういうような指導をされているのか。
警視庁巡査を命じられました。二月二十七日に四谷の警察へ参りまして、それから中途世田谷の警察に変つておると思います。それから警務課に変りまして、そうして大正十四年の十一月の三十日に巡査部長になつておると思います。それから巡査部長は警務課でずつと勤務したつもりです。それから十三年の六月の一日に警部補に任官しました。そうしてこれは本郷の駒込警察署に勤務しております。
○証人(飯塚堅藏君) 大正十一年に警視庁巡査を拜命しまして、昭和八年に巡査部長、昭和十四年に警部補、二十一年に警部、昨年の十二月第二係長、大体勤務場所は万世橋、世田ケ谷警察署、新場橋警察署、監察官附、それから捜査二課、大体は殆んど捜査二課でございます。
○証人(吉武辰雄君) 昭和六年二月に警視庁巡査を拝命いたしました。昭和九年の二月巡査部長、それから昭和十二年の八月には警部補、十九年の五月に警部、それから二十四年の十二月警視であります。その間二年ばかり南方に行つておりました。 勤務は最初戸塚、板橋、淀橋の各警察署におりまして、特別警備隊、それから丸之内、捜査二課、それから荏原、それから警務課、駒込警衛課、捜査二課、こういうことになつております。
○証人(折田二雄君) 私は昭和七年に警視庁巡査を拜命しまして今日に至つておりますが、大体十八年間警視庁に奉職しております。
○証人(日野昇君) 大正十五年の三月十日に警視庁巡査を拝命しまして、メモを持つておりませんので若干食違うかも分りません。
○証人(加島義成君) 昭和六年七月二十七日警視庁巡査拜命、それから愛宕警察署、戸塚警察署、久松警察署、戸塚警察署まで來て昭和十四年九月四日に巡査部長を命ぜられて、久松警察署に行きました。それから昭和十七年六月四日に警部補に任官して中野警察署に行きました。中野から荻窪に行きまして、荻窪で昭和十八年から昭和二十二年の三月まで司法主任をやつておりまして、同月警視庁捜査二課勤務になりました。
○証人(宗像三郎君) 大正十三年に県立の中学四年終了しまして、昭和四年に警視庁巡査を拜命、昭和十六年に警部補を命ぜられて、二、三転勤しましたが、昭和二十二年には警視庁に来て経済主任、更に二十三年から現在まで捜査第二課勤務になつたです。