1950-04-10 第7回国会 衆議院 考査特別委員会 第23号
次に一九四九年七月十六日、日本新聞六〇一号に「党創立記念日に誓う」という題で、これは諸戸文夫氏の書いたもののようですが、こういうのは覚えはありませんか。
次に一九四九年七月十六日、日本新聞六〇一号に「党創立記念日に誓う」という題で、これは諸戸文夫氏の書いたもののようですが、こういうのは覚えはありませんか。
これを諸戸文夫君が引用して彼の意見を展開しておるわけです。
その次は何か在ソ中に諸戸文夫事件というのがあつたそうですが、それを概略だけでよろしいのでありますが、ちよつと聞いておきたいのです。
○梨木委員 次にお伺いしますが、ここに書いてある編集の責任者が、諸戸文夫のペンネームで知られた淺原基敏、それから記者には新聞行政責任者で四八年末以降日本経済事情、日本共産党の動きなどを書いていた東大社研出身の相川某、天皇制打倒のスローガンを掲げるのに反対し、プチブルとして非難され、後帰国した小針延次郎、東大工科卒元工兵大尉で論説担当の宗方肇、日本共産党政治局委員袴田里見の実弟袴田、その他高野、墨田、
○委員長(岡元義人君) それから昨日高山証人によつて諸戸文夫は大場三平であり、又淺原正基である、こういう工合に言われたのですが、この点について宗像証人に伺いますが、淺原という人はペンネームを二つ持つておられわけですか。
諸戸文夫と大場三平の使い分けをした理由、それについては存じません。
○委員長(岡元義人君) 重ねて高山証人に伺いますが、淺原正一と諸戸文夫氏との関係はどうなつているのですか。この点を証言を求めます。
併しながら彼の只今証言なされたことに対しては、いろいろ人名その他についても、例えば淺原、ペンネーム諸戸文夫という人も、昭和二十一年の六月、吉良金之助も当時日本新聞社に参つておる。小針君と相前後して、ほんの短かい期間においてここにおいて入れ代つておる。
併しこれはその後大分変りまして、昭和二十一年の四月になりまして、淺原、諸戸文夫ですが、彼がコンミユニストであるが故に非常な勢力を持つて私と連日眞正面から喧嘩しておりました。というのは、小針の編集客針は朝日新聞型でいかん、これでは働く人々の新聞、機関紙として非常に面白くないものである。よつて君は編集を退陳してくれ、こういう要求が來たのが四月であります。
その後現在の編集方針はよく分りませんが、ただ非常に小針あたりの説はブルジヨア式であつていかんから改めるといつて諸戸文夫君に代つたから、今の新聞は殆んど全部論説であります。社会主義の解説であります。関係というのはそれ以上分りません。