2008-05-23 第169回国会 衆議院 経済産業委員会 第16号
いろいろな商売のやり方があると思いますけれども、例えば、私が高校時代に古文で習った今昔物語だとか宇治拾遺物語の説話の中にも、ちょっと出典ははっきり覚えていませんけれども、都で魚の行商をする人がいて、大変おいしい魚だといって評判で飛ぶようによく売れた、ところが後になったらそれが蛇の肉だったことがわかったというようなお話がどこかにあったような記憶が私あるんですけれども、まさにこれなんかは、食品偽装の話が
いろいろな商売のやり方があると思いますけれども、例えば、私が高校時代に古文で習った今昔物語だとか宇治拾遺物語の説話の中にも、ちょっと出典ははっきり覚えていませんけれども、都で魚の行商をする人がいて、大変おいしい魚だといって評判で飛ぶようによく売れた、ところが後になったらそれが蛇の肉だったことがわかったというようなお話がどこかにあったような記憶が私あるんですけれども、まさにこれなんかは、食品偽装の話が
一つは、中国の古い時代の説話集に、小さな石を拾ってきて、それで仏壇に置いておいたら長い間にそれが大きな岩になったという話がありまして、そういうものが日本に伝わって、これが君が代の歌に取り入れられたんだという説がございます。 それからもう一つは、先生今御指摘のように、私は岐阜県の出身でございますけれども、岐阜県の春日村というところがございます。
この説話は、現在でも「米百俵物語」として語り継がれ、小学校の国語の教科書にも取り上げられている。 とあります。そして、この財団は、日本の将来を担うところの優秀な人材を育てることを目的とする、こう引用して書かれているわけでございます。 私のふるさと、越後の長岡藩の「米百俵物語」は、我がふるさとの誇りでありまして、語り継がれているのであります。
インドの説話で、インドのヨガの僧が一生懸命五十年ほど修行して川を歩いて渡ることができるようになった。その横で船頭さんと船に乗っていた人が、わずか一ルピーか何か知りませんけれども、たったわずかな金で済むことを五十年も修行してあほやなといって笑い転げたという、つまりそういう笑い転げる健全さが今の日本にはないんですよ。全部それを、わあ超能力だ超能力だと言ってしまう。
すなわち古事記に、アマテラスオオミカミが大嘗を行われた御殿についての記述がございますし、また日本書紀に、アマテラスオオミカミが皇孫ニニギノミコトの降臨のとき斎庭の瑞穂を授けられ、ニニギノミコトの皇妃、お后でございますが、皇妃が新嘗を行われたとの説話が見られるところでございます。
こうした考え方から、聾学校におきましては日本語を言語として身につけさせることを主眼としまして、主として聴覚活用ですとか、説話、あるいは発言、発語による意思の疎通を図るいわゆる口話法による教育を行っているところでございます。
あわせて奈良でも仏教説話展、こういうものを現在ちょうど同じように五月二十七日までやっております。そういうことですから、全部が全部ではないんですけれども、ほぼ非常に立派なものが集まっている、そのように認識をぜひしていただきたいというふうに思います。
教科書は使用しないわけでありますが、道徳の時間を有効に使うためには読み物資料とか教師の説話とか視聴覚教材を用いて指導する、こういうようなことを教育課程審議会及び先ほど申し上げました教材等調査研究会等でいろいろ細かく検討して、それに基づいて道徳の時間が始まったということでございます。
○受田委員 祝日の趣旨徹底をはかる学校の訓示、説話、こういうものは文部省としてある程度示しておられるのですか。なぜ休むかという……。
おそらくこの説話は、天皇が日本を支配する由来を説明するために、天皇家の権力が広まった五世紀以降においてつくられ、主として朝廷の貴族の間で伝えられたものと考えられます。あるいは、それに新しい活をつけ加えていったというようにして、日本書紀あるいは古事記の形になったと思われます。
をなしておらなかった、そうしてそれが、いま桃太郎やカチカチ山のような昔話的な、おとぎ話めいたものとして伝えられておったのかという御質問でございましたが、それはそうではございませんので、これは先ほども申したと思いますが、日本の神話というものは、古事記や日本書紀に書かれておる神話というものは、国家統治を、天皇による国家統治を基礎づけるためにつくり上げた、神話学上で申します政治神話という分類に入るわけで、その中には民間説話
ところが出雲神話におきましても、それはその結果、ヘビから取り出した剣を天照大神に捧げるという点において作為をしておって、民族の英雄、民間説話の英雄ともいうべき素戔鳴尊が天照大神の家来になるという形になっておるのは、民間説話そのままではなくて、それは大和朝廷の貴族によって支配者の立場からつくりかえたのである。出雲神話においてもそういうつくりかえが行なわれておる。
神武建国の説話が民族の精神をあらわす神話であるとするならば、わが国民は、再びいわゆる天つ神の子孫をいただき、金のトビや八咫のカラスに助けられて、八紘一宇を目ざし、戦争にいくのを理想としておるということになるが、それでよいのか。軍国主義民族になることをみずから否定した憲法の精神に反することは明白であります。
このことについては私は事実であろうと思うのでありますが、歴史というものを政治的な説話に従属させて、神秘的な神権天皇のもとに全国民を結集する役割りを持った紀元節が明治に生まれました。そういうような点から見まして、何といっても、歴史学あるいは考古学というような一つの科学を中心にした子供たちの教育が今日は行なわれております。
それと離れて、何と申しましょうか、歴史科学と、それから神話、説話というようなことについてどう考えるかというようなお尋ねでございますれば、まあ私は私なりのしろうと考えを持っておりますけれども、別にたいした意見とも思いませんので、ここでわざわざ御披露するまでもないかと思います。
これは教育の問題、政治の問題という問題を考えますときに、説話というもの、それはなるほど日本民族が今日まで持ってきた一つのイメージが入っておるとは思うのです。
副読本のようにして視聴覚とかいろいろなものを説話体でやる。それをかりにやっていても、子供に激しく印象づけられているかという気がするのです。それはどこの国でも、いまのようにだれでも守らなければならぬようなものはきちっときまっているのですね。社会もそれを認めている。社会も、それをいたずらする場合には注意することもある。
その一週一時間の道徳の特設時間をどのように教えるかという問題になりますと、いま御指摘のありましたような読みもの資料だとか、あるいは視聴覚教材とか、あるいは教師がいろいろ自分で説話をするとか、そういうようないろいろな方法を織りまぜて実施するというたてまえになっております。
先生の説話になり、読みもの、資料、あるいは小学資料その他いろいろなものを用いながら、具体的な実践活動を通じて生徒に体得させる、こういうような指導方法をとっているわけでございます。したがってこのいまつくろうといたしております。道徳の読みもの資料につきましても、これは指導のしかただと思います。
したがって、私どもとしてはその教育課程審議会の答申に基づいて、現場の先生が指導しやすいようないろいろな内容を盛った、古今東西にわたる説話とか、あるいは訓話、それからいろいろな物語、そういうもので適切なものを選んで、そういうものを参考にしてやってもらいたい、こういうような趣旨で指導資料をつくるわけでございます。もちろんその指導資料のみをもって事足れりというわけではございません。
二月十一日という日も、あえて科学的な事実によらずとも、古い伝承や説話のうちにも民族成長の歴史的な息吹きがあると認めたからであります。 また次に、七月十五日をお盆の日と定めましたのも、古くからのわが国に伝わって国民生活に溶け込んでいる民俗的な伝承を、そのまま祝日と定めたのであります。
二月十一日という日も、あえて科学的な事実によらずとも、古い伝承や説話のうちにも民族成長の歴史的な息吹きがあると認めたからであります。また、次に七月十五日をお盆の日と定めましたのも、古くからのわが国に伝わって国民生活に溶け込んでいる民俗的な伝承をそのまま祝日と定めたのであります。
二月十一日という日もあえて科学的な事実によらずとも、古い伝承や説話のうちにも民族成長の歴史的な息吹があると認めたからであります。 また次に七月十五日をお盆の日と定めましたのも、古くからわが国に伝わって国民生活に溶け込んでいる民俗的な伝承をそのまま祝日と定めたのであります。
二月十一日という日も、あえて科学的な事実によらずとも、古い伝承や説話のうちにも民族成長の歴史的な息吹があると認めたからであります。 また次に七月十五日をお盆の日と定めましたのも、古くからのわが国に伝わって国民生活に溶け込んでいる民俗的な伝承をそのまま祝日と定めたのであります。
道徳教育では、本来あまり教科書を使いたくないというのは、教科書を使いますと、戦前の修身のようなものになるおそれもあるので、なるべくなら教科書にたよらないように、教師の説話とか、伝記物とか、あるいは物語とか、文芸作品のような読みものを通じていくとか、あるいは映画とか、スライドとか、紙芝居、あるいはラジオとか、テレビというような視聴覚に訴えていくとか、なるべく子供たちの心情に訴えて道徳的な判断力を養って
実は、この文部広報の中に出ている特設時間に対する教育課程審議会の目標指導方法により、基本線が出てきたという具体的なものを見せていただいたわけでありますが、これを見たときに、指導方法等について考えて、具体的にあげてある日常生活上の問題の利用、読みものの利用、教師の説話、社会的なできごとの利用、視覚教材の利用、実践活動、研究作業というようなものが出てきているわけなんであります。