2008-03-31 第169回国会 参議院 文教科学委員会 第4号
それは何も詰め込み式でやるということではなくて、確かに授業時間数は増やしておりますけれども、内容を授業時間数だけ増やしているわけじゃありませんから、その中で例えば、今日は御質問はいただけなかったんですが、言語力の問題をしっかりと各教科で補強していこうとかいうふうな、さっき先生、国語の話をされましたが、そういったお話もちゃんと入れておりますし、また国際競争力、これは勝ち抜いていかないと日本の社会は持続
それは何も詰め込み式でやるということではなくて、確かに授業時間数は増やしておりますけれども、内容を授業時間数だけ増やしているわけじゃありませんから、その中で例えば、今日は御質問はいただけなかったんですが、言語力の問題をしっかりと各教科で補強していこうとかいうふうな、さっき先生、国語の話をされましたが、そういったお話もちゃんと入れておりますし、また国際競争力、これは勝ち抜いていかないと日本の社会は持続
あの教育の中で目指したものというのは、これ当時、生きる力ということが言われたわけでございまして、詰め込み式ではなくて自分で考える、自分でいろんなことを工夫をするといった、そういうことを例えば総合学習といったような新たに設けられた学習時間で子供たちにはぐくむということが当時意図されたというふうに理解をされております。 ところが、なかなか現場にその趣旨がうまく伝わらなかった。
また、大変な高齢化ということで、そして心身にいろいろなハンディを持つ高齢者が増加しているわけでありまして、いわゆるそういう中で、昔のような詰め込み式の避難所の在り方というのはやはり早急に見直されなければいけないのではないかというふうに思います。 学校施設については、社会の最善のものを完備するということが実は欧米の主流の考え方になっているところであります。
考えてみれば、今までいろいろな時代に合わせて、例えば、基礎が足りない、詰め込み式だと言われたら、今度はゆとり教育になる、学力が低下したと言われたら、今度は確かな学力にと、そのたびごとに批判を受けて、そして方向転換をしてきた。そうではなくて、教育というのはこうあるべきだというもっと毅然とした信念というものが私は求められているのではないかと思っております。
詰め込み式で頭でっかちばかりになりまして——本当の教育というのは、やはり大きくなってリーダーシップをとれる、みんなを率いてあるいは先頭を切って社会を生きていくというリーダーシップが求められているのではないか、そういうふうに思います。
二年の短大を例にとりますと、いまのところは九百二十時間程度というのが基準になっているように伺っておりますが、それをはるかに上回るというような状態で、あるいは四年の総合大学でございますと、全体としては千九百二十時間という時間数でございますが、私どものほうは年間ほとんど休暇がないという、年間フルに学校を動かしているという関係もございますけれども、ほぼ四年制の大学に近いような時間数の、まあ現実をいえば詰め込み式
その当時、わが国はあの大戦に至るにあたっては、東條内閣のもとにすべての者が一億一心で詰め込み式に全部追い込まれて、あの戦争にたたき込まれた。いま私たちがここで考えなければならぬことは、日本国民を欺瞞してはいけない。