2021-05-11 第204回国会 参議院 法務委員会 第12号
少年による殺人や殺人未遂というのは、その半数以上が親殺しや嬰児殺し、家族内の事件で、背景には長年にわたる親の虐待やあるいは性暴力などが存在することも少なくありません。ですから、いかにも凶悪犯というような、全く落ち度のない第三者に対する事件は少ないわけです。調査すればするほど保護の必要性が浮き彫りになるケースが多いということもあると思います。
少年による殺人や殺人未遂というのは、その半数以上が親殺しや嬰児殺し、家族内の事件で、背景には長年にわたる親の虐待やあるいは性暴力などが存在することも少なくありません。ですから、いかにも凶悪犯というような、全く落ち度のない第三者に対する事件は少ないわけです。調査すればするほど保護の必要性が浮き彫りになるケースが多いということもあると思います。
シューマッハーがモデルとしたのは中世のヨーロッパということでありますけれども、アインシュタインの親殺しのパラドックスのように、なかなか時代を戻すというのは難しいという中で、その後も、経済社会活動はより活発になり、その中で国際社会でもサステーナビリティー、こういう概念が生まれ、様々な分野でその危機であったりとか対策の重要性というのが指摘をされるようになってきたんだと思っております。
親殺しや子殺し、虐待、そして、例えば親が亡くなったことさえ届け出ずに、その年金を当てにして生活する、そんな事件が相次いで起こっております。日本の根幹あるいは教育というものはどうなってしまったのか。これは多くの人々が感じていることであろうと思います。
現代は、そういう社会の中で、ポスト成長社会で緩慢な親殺しと緩慢な子捨てが起こっている。これは社会政策の問題だけではなく、私たちの社会のあり方、国家のあり方にかかわる問題だ。 今述べました私のお話を最後に、これで終わらせていただきます。どうも御清聴ありがとうございました。(拍手)
子供が親に殺意を向けて、そして残虐な親殺しが頻発しているということでありますけれども、昨年、福島県の会津若松市で、県立高校三年生、十七歳の男の子が母親を殺害しました。この少年は、県内屈指の伝統校に通っておられて、親御さんも大変教育に熱心だったというふうに伺っておりますけれども、お母さんを殺害して、その頭部を学校指定のバッグに入れて警察に自首した、こういう事件でありました。
そして、経済的に立ち直った今、いいものを忘れたまま、本来の和の文明とか美と慈悲の文明のようないいものを忘れたまま拝金主義の方に突っ走るとすれば大変危険であり、そういう社会のよくない変化というものが殺伐な世相を生み、親殺しだ、子殺しだ、悲惨な事件を生む。だから、刑事事件というもの自体は平成十四年をピークにして減りつつはあるんですが、凶悪事件というのは全く後を絶たない。
そういうことが当たり前であった時代には、子殺しや親殺しという話はやはり皆無なわけですね。 今の産婦人科の病院の状況を考えると、やはり生まれてすぐに、子供は子供の新生児室に預けられ、お母さんはお母さんの個室にいて、おっぱいをやるときだけは会う。果たしてそういうやり方を、本当はもうちょっと考えないといけないんじゃないのか、そういう問題提起をさせていただきたいと思っております。
日々、いろいろな出来事が起き、それがいろいろな情報機関によって流され、それについていろいろな人がいろいろなことを話しておりますが、それらの中で、目を覆い、耳をふさぎ、本当に見たくも聞きたくもないということに、親殺しであり、児童虐待であり、また、海鳥が海に漂うプラスチックの小さなものを食べてもがき苦しんでいる、そういう出来事があります。
近年になるにつれまして、学校や教育現場におきまして悲惨な事件や、子供の虐待、子殺し、親殺しといった残虐な事件が多く発生しております。それら様々な事象、事件に対応するためでしょうか、改定基本法はかなり細かく国民への教育の方針を規定されているように感じます。
尊属殺人重罰規定といいますのは、後に一九九五年に削除されました刑法の旧二百条が定めていたものでありまして、尊属殺人、つまり親殺しですね、これを普通殺人よりも重く罰するという規定でありました。この規定に関しまして、田中二郎判事はこのように言っています。
いじめや不登校、校内暴力、学級崩壊、また幼児虐待や家庭内暴力、あるいは子殺し、親殺しなどなど、我が国の教育と子供たちをめぐる状況は極めて深刻な状態にあります。我が国の教育を取り巻く現状をこのまま放置しておいてよいと考える人はまずいないと思います。今こそ、我が国の教育全般にわたる抜本的な改革が求められております。これは、教育基本法についてもその例外とすべきではないというふうに考えます。
また、そういったことが、短絡的かもわかりませんけれども、子殺し、親殺しといった事件の遠因として、そのお産のありようというものが影響しているのではないかな、そんなことも推察できる。 また、最近テレビ等で大変視聴率の高い細木数子さんの、生まれた年月日でもってある程度その人の将来を推測していくということがある。
最近のテレビであれ新聞であれ、マスメディアのニュース、記事、親の子殺しから子の親殺しに始まって、本当にひどい、信じられないような事件ばかり続発いたしております。
親の子殺し、子の親殺しさえ大したニュースにならなくなっている現状は、そのような日本社会のあらゆるものの大崩壊のあらわれであると思います。 経済を立て直すことは、正しい政策を手順を間違えずに実行すれば、それほど難しくはありませんが、精神を立て直し、国民が心を奮い立たせて新しい国づくりに取り組むようにするのは、至難のわざであります。
例えば親殺しをやったとか、そういうような場合もございます。嬰児殺の場合もあります。それはケース・バイ・ケースで、原則は逆送だけれども、そうじゃなく保護処分になる場合も多々運用としてはあるということで、それはもう実務の感覚で私は適正になされるものだというふうに考えております。 それから、もう一人の犯罪被害者である山口由美子さん、この方は御自身バスジャックによって重傷を受けた方でございました。
ここのところ、子供の親殺しもありますけれども、逆に、親が子供をせっかんして責め殺しちゃったというのもありますね。 事ほどさように、子供だけが異常なんじゃないでしょう。大人の社会が異常だから、子供も異常になっているんじゃないですか。そうだとすると、子供たちの少年非行だとか少年犯罪防止のために一番心すべきことは、大人社会をきちんとすることじゃないですか。政治家だってそうじゃないですか。
子供が親を殺したら社会面トップ、親殺しということで大変な騒ぎになるけれども、親が少年を殺すと、大体理由がある。むしろ、親の側に減軽嘆願運動などが起こって、署名がわんさか集まってみたいなケースもあるのですね。せっかん死なんという言葉もちょっと軽いですよね。せっかん死、非常に小さい、大体このぐらいの記事ですね、最近ちょっと注目されて大きくなりましたけれども。
自民党内には①最高裁判決は、刑法二百条の刑が重すぎることを違憲としているのであって、二百条そのものを違憲とはしていない②しかも、この判決は実父が娘に五人の子を生ませた結果、思いあまった娘が父親を殺害したという極めて特異な事件について行われた――などの理由から「親子関係はやはり人倫の大本であるべきで、特異なケースをきっかけに親殺しも普通殺人と同じ罪で処理されるのは社会道徳に反する」という考えが依然として
古代ローマ法においては、自己の親を殺した者は、むち打たれた上、犬やマムシ及び猿などと一緒に革袋に縫い込まれて川や海に流されたそうでありますし、日本の徳川時代に例をとれば、親殺しは、引き回しの上、はりつけにされたそうであります。 昭和四十八年の違憲判決から二十二年間、国会は不作為の怠慢ではなかったかとの批判があるかもしれませんが、私はそうは考えません。
すぐ隣の二百条に尊属殺、つまり俗に言う親殺し、親殺しについて定めてあって、これは死刑と無期しかないのですね、処罰、刑罰の方が。これが憲法十四条の平等に違反するということでかねてから随分争われて、それで下級審の判例が積み重なった上で、昭和四十八年四月四日、今から二十一年前、最高裁判所はこの刑法二百条は憲法違反だ、無効だという判決を出されて、もう確定しているわけですね。