1968-04-09 第58回国会 参議院 運輸委員会 第10号
それは大蔵省と、国鉄側の要望線もありますからね、運輸省の関係もあるでしょう。そういうところで煮詰めているわけです。だからぼくはあえて資料持っていますけれども言わない。あなた方のほうから各線別ということも言わなかった。
それは大蔵省と、国鉄側の要望線もありますからね、運輸省の関係もあるでしょう。そういうところで煮詰めているわけです。だからぼくはあえて資料持っていますけれども言わない。あなた方のほうから各線別ということも言わなかった。
○吉田忠三郎君 せっかく大臣がああいう答えをしたから、直ちにぼくがやっておる間に、あるのですから、検討したいということじゃない、現にある、そこのことを、大蔵、これは国鉄の関係ありますからね、これは国鉄の要望線というのがあるのですから、それから運輸省——あなた方だな、そういう関係、たとえば経済企画庁も関係あるでしょう、これらの問題については。
それから建設公団の問題でございますが、私どもといたしましては、建設公団が国鉄要望線と申しますC線D線の建設に非常にいま力を注がれ、またさらに法律も改正されて借金もできるようになりましたので、私どもといたしましては、建設公団が極力D線、国鉄要望線を早くやってもらいたい、たとえば京葉線あるいは湖西線とか、こういうほんとうの幹線筋の、しかも通勤輸送に間接に関係のあるような線を早くやってほしい、こういう強い
当時の状況から見ますと、お話にありましたように、工事がいわゆる総花的な施工になっているということで、こういうような状況でいったならば、国鉄が要望しておりますようないわゆる国鉄要望線と申しますか、そういうようなものだけでも非常に長期、まして地方開発のための路線というようなところには三十年かかるか四十年かかるかわからない、こういうようなことが判断されましたので、特に工事の重点施工ということについての勧告
これができましたいきさつでは、通産省からもぜひその硫化鉱の開発のために強い要望がございまして、いわゆる通産省要望線という形でこれがつくられたわけでございます。しかしながら、最近のいろいろの状況からいたしまして、多少輸送トン数が減っております。
それから国鉄の出資の問題でございますが、これは国鉄のほうにお聞き願いたいと思いますが、国鉄の要望線というものがございまして、たとえば(1)の武蔵野線、京葉線、根岸線、あるいは伊勢線、こういうところは、国鉄のほうは新長期計画との関連において、長期計画の年次に合わせて建設してほしい、こういうような要望がございましたので、国鉄のほうも鉄道公団との関係におきましては、全然金を出さないというようなことは相当問題
○堀政府委員 新線の建設にあたりましては、国鉄の要望線等もございまして、計画段階から非常に密接な連絡をとりながらやっておりますし、また現に技術陣も国鉄から主力をさいていただいております。非常に密接な援助のもとにやっておるつもりでございます。いまだかつて私の耳には、国鉄が協力しない、公団の新線建設には国鉄が協力してくれないということは、私自身の耳には聞いたことはございません。
○受田委員 大体要望線を実行に移すために努力しておられるということで、私も一応了承しましょう。社外重役、第三者の公正な意見が入る方法はいろいろなことがあると思いますから、この際に外務職員の苦労も十分反映するような方法をとるとか、いろいろなことで会社の経営に近代的な成果があがるように御努力を願いたい。 もう一つ、保険料率なるものは、男女の平均余命表を基礎にしておられる。
その基本的な要望線である有線放送施設の相互間接続と公社線との接続という点においては、本改正案に対して原則的には賛成でございます。ただしそれは、そういう要望が具体的に何らかの手続によって、この法律の改正によって実現ができるという形がうかがえるから、原則的に賛成だということを申し上げるわけですが、全面的に見ますると、なお相当の問題点があるというふうに私どもは考えるわけであります。
そこで、いろいろわれわれも質問を個人的に受けまして、他の社等からも聞かれましたので、それは向こうの考え方で書いたんで、事実また違っておる部分もあるというような話をしておりましたところ、その後、多分あれは毎日新聞だったと思いますが、各府県でやはりいろいろ要望をしてきておるものですから、府県の方は自分の要望線はわかっておりますので、そういう方面を当たって若干書き直して記事が出たように思います。
それから要望線が八十何個線あるわけです。こういうものを簡単でよろしゅうございますから、資料をもらって、次回に一つ委員会で御説明願いたいと思います。
申し入れたそうでありますが、十分に意見が開陳された後、すべてのことは最後に表決によつてその結果日教組の一本線というものが要望線となつたということであります。それからさらに文部省で、その当時参画した人が現在でもおりますが、さような人のお話を伺つても、やはり同様でありまして、高等学校から、その後直接に文部省へ出向く人も、ずいぶんあつたそうでございます。