2002-11-14 第155回国会 衆議院 憲法調査会政治の基本機構のあり方に関する調査小委員会 第1号
西洋哲学では、伝統的に、世界認識について、多様である世界、多者は一者が創設したと理解するか、これは創世説と申しますが、一者から流出したと理解するか、これは流出論と申しますが、その違いはともかくといたしまして、多者と一者の関係をどのようにとらえるかということで議論がされてまいりました。
西洋哲学では、伝統的に、世界認識について、多様である世界、多者は一者が創設したと理解するか、これは創世説と申しますが、一者から流出したと理解するか、これは流出論と申しますが、その違いはともかくといたしまして、多者と一者の関係をどのようにとらえるかということで議論がされてまいりました。
それがどういう意味を持つかというのは、基本的には、宗教教義、もしくは西洋の場合はキリスト教教義を脱色した西洋哲学がそれを意味づけするということになっております。
西洋哲学の祖ジョン・ロックが、立法について次のように語っています。立法権、すなわち最高の権威は、にわか仕立ての勝手気ままな法令によっては、支配の権力をその手におさめることはできない、国家がどんな形態であろうとも、支配権力は、思いつきの命令やあやふやな決定によってではなく、公に宣言され、世に受け入れられた法によって支配すべきである。この言葉に、総理と与党は耳を傾けていただきたい。
西洋医学の基礎になっているものはもう御承知のように西洋哲学といいますか、ウィルヒョーの細胞病理学とか、あるいはいういろな物質的なものを中心にした唯物的な考え方が根底になってきたわけでございますので、そういう西洋医学に対してもっとより生命という時点でとらえた哲学、その一つは東洋哲学でございますけれども、それを基本にした考え方を導入しない限り、そういう世の中は出てこないというふうに思うわけでございます。
その前を利用して、三十、一日と私はワシントンでできるだけ多くの政府要人並びに議会人と会って話をしたいと思っておりますけれども、そこで私は、やはり同じというわけにはなかなかいかないよ、歴史も違い、あるいは地理的環境も違い、あるいは哲学も、正直、日本とアメリカでは違うわけでございますから、キリスト教を基礎にしている西洋哲学と、儒教、仏教を基礎としている東洋哲学、やはりそれぞれ違うわけでございますから、そういうこともよく
今から四十年も前に、東洋哲学及び西洋哲学、並びに政治経済学研究の親友であった一九五一年から復旦大学の近代経済史を担当している呉杰(呉現)君が、嵐の時代の日本の歴史研究の権威者として心身ともに健在であることを確かめ得たので、積もる話し合いをしてみようと思って、三十六年ぶりで手紙をいただき、台風に乗って上海に飛び込みました。