1999-05-07 第145回国会 参議院 本会議 第18号
創立五十周年を迎えたNATOは、冷戦下での集団防衛を目的とする西側軍事同盟から脱却して、危機管理型の安全保障機構への脱皮を目指し、先般、新戦略概念を採択して欧州安保の将来構想に踏み出しました。 その内容は、NATOの地理的範囲を超える抑止力が必要との考えのもと、予防外交ではなく、予防防衛を志向するものであります。
創立五十周年を迎えたNATOは、冷戦下での集団防衛を目的とする西側軍事同盟から脱却して、危機管理型の安全保障機構への脱皮を目指し、先般、新戦略概念を採択して欧州安保の将来構想に踏み出しました。 その内容は、NATOの地理的範囲を超える抑止力が必要との考えのもと、予防外交ではなく、予防防衛を志向するものであります。
さらに、同年六月のトロント・サミットでは、軍事・政治偏重から経済中心のサミットに変えるというふれ込みで行われたにもかかわらず、西側軍事ブロックの新たな結束強化を図る場となったのであります。 警察警備の整備費について言えば、常駐警備車、小型警備車等々の購入も含まれており、いずれも警察力の増強につながるものであります。
竹下内閣は、INF条約調印以来の世界の流れに反し、核抑止力論の立場に立ち、我が国の核基地化を進め、レーガン政権の戦略に忠実に従い、西側軍事同盟の一員としての危険な役割を果たそうとしております。 第一に、広島、長崎に原子爆弾が投下されて四十三年になります。総理は、国連軍縮特別総会での演説で、核廃絶は究極目標と述べました。これは、核兵器廃絶を緊急課題ではなく、棚上げするものと言わねばなりません。
また、西側の結束の名のもとに西側軍事同盟強化を図る主要国首脳会議の席上でも、世界唯一の被爆国の首相でありながら、総理は、核兵器廃絶を主張せず核軍拡路線に固執する態度をとり続けています。このような内容を含む予備費支出は断じて認められないのであります。
そうであるならば、アメリカや西側軍事同盟諸国に対し、どんな義務を、いつ、どういう形で公式に認めたのか、国民の前に明示してもらいたいと思います。(拍手) また、軍備増強の内容自体がアメリカ側の青写真に沿ったものであります。
というのは、二つの大戦が残した最大の教訓は、軍事同盟の対抗とそれによる軍拡競争が恐るべき大量殺りくに行き着くということであったにもかかわらず、政治宣言は、平和と軍縮の飾り文句の陰で、軍事力の均衡の維持及び強化への努力、すなわち西側軍事同盟の強化と核軍拡の悪循環への志向を確認したからであります。
そういう意味で、いわゆる西側軍事ブロックの一員としての国際国家日本というものを背負うための人材づくりという教育改革は、憲法の期待するところではないというふうなことを私はまず最初に申し上げておきたいと思います。 そこで、総理はたびたび、教育基本法を守るのだ、今もおっしゃられましたね、教育基本法を守るのだ、その枠内でやるのだ、その精神にのっとってやるのだ、こういうふうに言っておられます。
ですから、西側諸国の一員ということ、これは言いかえれば西側軍事ブロックの一員ということにもなるだろうと思いますね。これはもう総理自身もお認めになるだろうと思うのです。ですから、そういう西側諸国の一員というそのことは、まず世界でも特定の党派的な政治的な立場だということが言えるのじゃないかと私は思いますね、三分の二の国々がもう非同盟中立の国なんですから。
アメリカを中心とした西側軍事ブロックとソ連を中心とした軍事ブロックとの果てしない核軍拡競争の悪循環、これこそが原水爆戦争の恐怖の根源であることは言うまでもありません。軍拡の論理を断ち切るべきときであります。
○渡部(一)委員 外務省の大きな主要な任務として、条約を結び、そしてそれの遵守を行うというテクニックによって諸外国と交渉する、交渉した成果を上げていくということはわかるわけでありますが、この宇宙軍の創設のように、レーガン政権が昨年の九月に空軍内に宇宙軍司令部、スペースコマンドを発足させ、本年の一月二十八日付の時事通信によりますと、当地のモスクワにおける西側軍事筋の二十八日の表明によれば、ソ連はこのほど
最後に、日本の安全は、西側軍事ブロックの一員として守られるものでもなければ、東側軍事ブロックの一員として守られるものでもありません。世界の一員として、軍拡ではなくて軍縮を、軍事同盟ではなくて非同盟を目指してこそ、日本の真の安全と明るい国際関係が保障されるものであります。それゆえにも、今回の自衛隊増強の防衛二法は大いなる逆行であることを指摘して、私の質問を終わります。
対ソのアメリカ、欧州、日本の軍事面での共同計画努力の必要の強調だとか、日本や日本周辺の米軍の有事における世界の他の地域への出動の可能性、いわゆるスイング、そのほか西側軍事力の統合という力の論理のみを強調しているという感じを受けるわけです。