2021-10-11 第205回国会 衆議院 本会議 第3号
小学校五年生から中学校二年生まで、当時の西ドイツのデュッセルドルフで過ごしましたが、多様な価値観や文化に触れながら、日本国が豊かで自由で平和であるよう、そして日本に暮らす人達がそれらを享受できるよう、自分も何か貢献したいという思いを強く持つようになりました。 社会人の第一歩として、通商産業省に入省いたしました。
小学校五年生から中学校二年生まで、当時の西ドイツのデュッセルドルフで過ごしましたが、多様な価値観や文化に触れながら、日本国が豊かで自由で平和であるよう、そして日本に暮らす人達がそれらを享受できるよう、自分も何か貢献したいという思いを強く持つようになりました。 社会人の第一歩として、通商産業省に入省いたしました。
飯島先生は、先ほど、ナチスの非常大権を使って、ワイマール憲法四十八条ですか、これを使って相当むちゃくちゃなことをやったというお話をされましたが、戦後、ボン基本法の時代に西ドイツの人たちはかなり真剣に議論したと思うんですよ。
ちなみに、私は、幼少期も含め、西ドイツ及びドイツに十年弱おりましたが、ドイツでは、憲法に当たるドイツ基本法が六十五回改正されております。このことはドイツに視察に行かれた本審査会の先生方も十分認識されておられると思います。 さて、既に多くの委員から御指摘はありますが、世界中が新型コロナウイルス感染症による危機に直面し、緊急事態における国会機能の維持に関する課題が明らかになっております。
○参考人(佐藤丙午君) 冷戦期の西ドイツにおけるエスカレーションに対する恐怖への対応を考えますと、これは核戦略の一体化というふうに当時の西ドイツは向かっております。いわゆる核のシェアリングを行うことによって、核のボタンを、現実的にはそういう問題ではないんですけれども、核のボタンを西ドイツが持つことによって紛争の拡大を防止するという意味における安心感を手にしました。
例えば先進国の例と、比較可能な先進国という例でございましたらば、一九七〇年代に旧西ドイツのブンデスバンクにおいて、マルク高が生じたために保有外貨資産に多額の評価損が発生したことから債務超過となった事例がございます。その後は当期利益を処理に充当して債務超過を解消しました。
当時は、日本のGDPは、あのときでも世界第三位であって、アメリカ、二番目がドイツ、西ドイツですね、三番目が日本、こういう状況でありました。現在はどうかというと、アメリカ、中国、日本という、上からいったら、GDPの数はそうなっておりますし、大体、日本の五倍近くを今でもアメリカが持っておりますし、当時もそうでありました。
有識者の研究から一例を挙げますと、ドイツの東西統一後、特に旧東ドイツの都市部では、出生率の低下や旧西ドイツへの人口流出等により急激な人口減少が生じたことから、大量の空き家や空き地が発生いたしました。 例えば、この問題への対応として、ライプチヒ市では、外側からの地区の減築という施策を掲げて、市独自の利用承諾協定制度を導入しておられます。
日本のGDPは、世界二位になったのは、たしか一九六四年か、六〇年代だと思うんですけれども、西ドイツを抜いて二位になって、そこから二〇一〇年までは二位だったのが中国に抜かれたと。大体、中国のGDP統計と貧富の格差のデータから推計すると、いわゆる日本人の平均所得の倍以上の所得を持っている人が一億三千万人いるんですよ。
ところが、ドイツは第二次世界大戦後のボン基本法、ドイツは、東西ドイツ合併まで、ボン基本法という名前の実質的な憲法で西ドイツは動いていました。そこで、実は、首相あるいは内閣が勝手に解散できない制度を導入しました。それは、ナチス・ドイツを生んでしまったということの原因の一つとして、頻繁な解散が政治の不安定化と政治不信を招いたという反省、教訓に基づいていると言われています。
その次の年には西ドイツ政府の小口径トンネル掘進工法プロジェクトというのがありまして、そこの資金によって私どもの機械を、装置を購入していただいたという経緯があります。
第二次世界大戦が終わるまでは、間違いなく経済は国土の大きさにほぼ比例して経済力が強いというのが間違いない歴史的な事実だったと思いますが、この戦争が終わって、アメリカという国が世界のGDPの三十何%を持っていましたから、それもあったおかげで、自由貿易というのをアメリカが言い始めたのが最初の、自由貿易というものがえらく世の中に出ていくんですが、この結果どういう国が大きな力を持ったかといえば、明らかに西ドイツ
総合型ですので、様々なスポーツを障害あるなしにかかわらず一緒にやるというようなものこそが本来モデルとなった旧西ドイツの総合型地域スポーツクラブであろうと思うんですけれども、やはり現在の総合型は競技団体の寄り集まりで行われているケースの方が圧倒的多数ですので、やはりそこのクラブマネジャー、クラブをコーディネートする人たちの再教育というのが必要かなというふうに思います。
それが、自由貿易というものを主張したアメリカ、その当時はGDPを世界の四〇%ぐらい持っていたと思いますが、そのアメリカが提案をして、結果として、国土は強烈に小さくなりました西ドイツと日本は、経済力というものによって、極めて大きな経済力を得られるようになった最大の背景は、自由貿易と思っております。
それだけの前提条件がそろって、つまり若い人口と、そして非常に大きなボリュームとしての人口、これを備えた国が、ましてや日本人のような勤勉性や、そういった技術的な精巧さ等々、若しくは儒教文化に基づく集団的な意識でありましたり、そういったものを備えた国民、国家が経済成長しないわけがないわけでありまして、一九六四年には当時の西ドイツを抜いて世界第二位の経済大国になったと、それには実はそういった前提条件があったと
ドイツでは、第二次世界大戦終結後、西ドイツの時代から解散権行使の要件を厳格に絞っており、内閣不信任の場合などしか解散が認められていません。議院内閣制の本家と言える英国でも、二〇一一年に議会期固定法を制定し、内閣による議会の解散は認められなくなりました。カナダでも、二〇〇七年の選挙法改正により、不徹底ながら、行政府の解散権を制約する動きがなされています。
いずれにしても、この重要性というのは、やっぱり戦後国土が狭くなって経済力が落ちるというのは、これは第二次世界大戦まで世界の常識だったんですが、国土が狭くなったら国力が増大したという国が日本と西ドイツ、両方とも国土が半分以下になってそういうことになりましたので、その意味においては、それは自由貿易の結果、日本の場合、ドイツの場合、世界の中で経済力を大きく強くしたというのは歴史的事実ですから、その意味では
○岩月参考人 御質問のとおり、ISD条項は、一九五八年に西ドイツとパキスタンの間で結ばれたものが最も古いとされています。途上国で直接の収用、没収のようなことがされて資産が奪われたときの最終的な救済手段として構想されました。
というようなことを考えましたときに、我々、実にいろいろなことを考えておかないと、世界経済によってこれだけ世界じゅうがいろいろ複雑に、輸出したりされたり、輸入やら何やらでいろいろかんでいますので、日本の場合は、GDPの中に占める輸出の比率というか貿易比率の数は、中国やら西ドイツやら韓国みたいに高くありませんから、そういった意味では、影響力としてはアメリカ、日本というところは少ないところだとは思いますけれども
そしてまたオーストラリア外相会談も二月十五日にやっておられますので、日本、オーストラリア、西ドイツ、主導してのこれまでの取り組みですから、これはこれでしっかりとやりながら、片や毅然たる対応をやはり求めたいというように思いますが、御所見を伺いたいと思います。
一九八三年に、私は西ドイツのデュッセルドルフ、当時、駐在をしていて、同業他社の所長から一冊の本を勧められたの。「テクノクラシー」という本で、翻訳しているのが田原総一朗さんだったかもしれない。書いているのはビジネスウイークの記者で、出版されたのが一九七九年。冒頭に、ビジネスウイークの記者がいろいろなところを取材していくと、スイスの銀行家が妙な投資をしているというところから始まる。