1989-10-13 第116回国会 衆議院 予算委員会 第3号
その次に起こった第二次憲政擁護運動というのは、これは最初の政党内閣である大正七年にできた原敬内閣が、原さんの暗殺によって、その間、高橋さんがすぐ後そのまま引き継ぎ、そしてさらにその後加藤、これは友三郎の方でありますが、加藤友三郎とかそういう人に引き継いでいって、最終的にはどうなっていったかというと、加藤友三郎内閣、それから山本權兵衞内閣、それから清浦内閣というのは、これは官僚・貴族院内閣で超然内閣であって
その次に起こった第二次憲政擁護運動というのは、これは最初の政党内閣である大正七年にできた原敬内閣が、原さんの暗殺によって、その間、高橋さんがすぐ後そのまま引き継ぎ、そしてさらにその後加藤、これは友三郎の方でありますが、加藤友三郎とかそういう人に引き継いでいって、最終的にはどうなっていったかというと、加藤友三郎内閣、それから山本權兵衞内閣、それから清浦内閣というのは、これは官僚・貴族院内閣で超然内閣であって
廣田内閣は倒閣になりまして、続く林内閣、近衞内閣となりまして、このときに法案が成立をいたしまして、以来、死亡保険金に対して相続税をかけるということが続いてきたわけであります。 しかし、その当時も、相続税というものはすべてにかけるものではありませんで、一定の控除制度はありました。
日本のばかやろう、日独防共協定のときには、ソ連を攻めてくれと言ったときには第三次近衞内閣で、北進論の松岡だけを総辞職して首切って、アメリカとの戦争ばかり考えていた豊田貞次郎を外務大臣に据えて間違いを起こしている。 この間、私はソビエトへ招待されて行ってまいりましたが、ブラーツクというところで日本の捕虜がドイツの兵隊から攻撃を受けたという……(発言する者あり)耳が痛いですか。
入社後、総理府官邸詰めの記者となり、郷党の先輩風見章氏の知遇を得たこと、その後、陸軍省担当記者として軍部の事情に精通したことが、近衞内閣から平沼、阿部、米内、再び近衞、東條と政権が軍部中心に推移した時代において、塚原君の取材活動を有利にし、彼の政治情報を一層適確性を持たせたのであります。「塚原の情報は適確だ」と社内の評価を高めたのも当然のことであります。
そこで軍の場合はどうてあつたかというと、作戦用兵については、帷幄上奏の範囲に属するものであつて、現に近衞内閣のときにおいて、陸軍大臣は、総理大臣が幾ら尋ねても教えない。総理大臣は天皇陛下のところへ行つて、陸軍大臣がどう言いましたか、これはどうなつておりますかということを聞いて来たそうであります。
あえて、最初から原子爆弾を投下しなかつたら戦争と言い得ないと、然らば法務総裁の御見解のごとくするならば、原子爆弾を投下したときに初めて戦争が開始されたのだ、それまでは戦争でないのだ、小競り合いだと、それは事変だと、曾つての近衞内閣のごとく、いわゆる戦争を現に遂行しつつあるのを、それは事変だと言つて牽強附会の議論をして、今日台湾におけるところの講和問題においてそれが重点になつておるような結果を招来しておる
ちようど私は満州事変前にも、当時の彈圧によつて名古屋の刑務所に入り、昭和十二年におきましてもやはり当時の近衞内閣の手によりまして、四年間の牢獄生活をいたしましたが、ちようどその当時の政治情勢と似通つた傾向が顕著になりつつあるということは、はなはだ遺憾であるのであります。
今回のこの金額の中には、生産者に拂う金が二十数億円すでに拂わなくちやならいものがあるのでありまして、これを拂わなければ製炭業者というものはこの年末は送れない、親子心中する人を作るかも知れないというような政治性を持ち、生活擁護の立場から、本案はどうしても通して、そうして製炭業者並びにこれを……現在昭和十五年の関衞内閣以来、十一代に亙りまして、この薪炭需給に対しましては、各内閣が非常に骨を折つて、そうして
昭和時代に入り、いよいよ運動は熱度を加え、政黨政治に伴う自治權擴充の方向と併わして強く主張せられ、昭和四年第五十六囘、昭和六年第五十九囘、昭和八年第六十四囘、昭和九年第六十五囘各議會に、特別市實施に關する法律案として提出せられたのでありますが、いづれも衆議院は通過せるも、貴族院の阻止にあつて實現をみず、昭和十二年には當時の廣田内閣は、五相會議を開いて五大都市特別市制問題を協議し、同年第一次近衞内閣は