2019-11-27 第200回国会 衆議院 国土交通委員会 第5号
この海軍の開陽丸を持っていたために、明治政府は、蝦夷地共和国をつくろうとしていたその勢力を潰すことができなかったんですね。しかし、残念ながら、荒井郁之助は操船を誤って、江差沖で座礁、沈没させてしまいました。
この海軍の開陽丸を持っていたために、明治政府は、蝦夷地共和国をつくろうとしていたその勢力を潰すことができなかったんですね。しかし、残念ながら、荒井郁之助は操船を誤って、江差沖で座礁、沈没させてしまいました。
ただ、測量ということをいえば、伊能忠敬、今大臣もおっしゃいましたけれども、並外れた人物が江戸末期に登場しまして、一八〇〇年、五十歳になって、まず蝦夷地に行く、北海道に行く。そうなると、私は、北方領土は行ったのかなとか、そんな感想も持ったり、すごい人だ、こう思うわけでございます。
南千島、日本領土、北海道の一部と、蝦夷地と言っていましたが、蝦夷地の一部ということだったんです。ですから、太平洋戦争が終わりまして、ソ連が南樺太を没収する、それから北千島を我が領土とすると。 ところが、南千島については、さすがソ連も、あそこは日本の固有の領土だから、このまま踏み込んでいったらアメリカに怒られるんじゃないかと。
北海道に追い詰められて、一四五七年のコシャマイン戦争、一六六九年のシャクシャイン戦争、一七八九年フランス革命のときのクナシリ・メナシ戦争、アイヌは我慢に我慢を重ねて、ついには爆発をして和人軍と戦いますが、常にだまし討ちに遭って、最後は力ずくでねじ伏せられてきたという近世の蝦夷地支配の歴史、近代の北海道開拓という名前の植民地政策。
その船頭兼回船問屋をいたしまして、蝦夷地との交流をした。当時、一寒村にすぎなかった函館の現在の開港の基礎を築いた。 それから、蝦夷地だけにとどまらずに、国後、択捉、それからカムチャツカまで行くのですね。
○自見国務大臣 通告のない御質問でございますが、高田屋嘉兵衛どいえば、私も高等学校の歴史か何かで学んだような気がしますけれども、淡路島出身の、江戸時代後期だったと思いますが、後期は経済が、何といいますか、前期に比べれば発達した地域でございますから、交易をいたしまして、たしか蝦夷地との交易をされた立派な商人であったというふうな、その程度の認識は持っております。
○鰐淵委員 ただいまの御答弁によりますと、明らかにアイヌの方々が先住民族として、特に蝦夷地、北海道においては先住性を持っておる。そのことによる先住権というのは、またこれはいろいろな問題があろうかと思いますから、この点につきましては今後のいろいろな議論をまたなければならないと思いますけれども。 私どもは、実は私自身は戦前生まれでございますから、国民学校に入りまして、義務教育で中学を卒業した。
というわけで、数百年前、和人の人たちと蝦夷地で遭遇した私たちアイヌ民族の祖先はそのころまだ狩猟、漁労をなりわいとして生活し、そしてまだ文字を持っておりませんでした。これまで申し上げたように、やがて和人は多数者となり、文字を持たないアイヌに過酷な条件を押しつけてきました。支配とべつ視を持ち込まれ、アイヌの生活は悲惨をきわめ、人間として耐えがたい屈辱に満ちたものでありました。
私たちアイヌ民族が今この懇談会の審議の意味を日本の近代史の凝縮とすることの意味は、明治以来の日本がとってきた蝦夷地とアイヌ民族への侵略政策、まさに植民地的支配そのものであったとの歴史的事実によるものであるからであります。 したがって、私は懇談会の報告こそ日本社会とアイヌ民族との関係において初めて明らかにされる歴史的清算であろうかと考えているわけであります。
次に、蝦夷地に対する歴史認識についてということで御質問申し上げたいと存じます。 アイヌ語を含め申し上げたことは、私の家系が体験したアイヌの歴史、アイヌの気持ちのほんの一部であります。北海道のアイヌは、今このような歴史を踏まえて新たな共生関係をつくるために、旧土人保護法にかわってアイヌのための新しい法律の制定を求めています。
蝦夷地を日本の領土とした時期についてであります。 さて、和人が移住し、国家的な侵略と支配が及ぶまでのアイヌモシリは、アイヌによる静かで平和な時代が続いていました。教科書では、アイヌとアイヌ文化、そしてアイヌモシリの崩壊について次のように述べています。それは非常に簡単な記述でありますが、「松前藩は、幕府から蝦夷地の支配が認められると、アイヌをきびしくとりしまり、交易を独占した。
アイヌ民族が北海道、昔は蝦夷地と呼ばれておりましたが、樺太あるいは北方領土を含む千島列島に和人よりも先に住んでいたという事実をお認めになりますでしょうか。
同所は、北辺防備と蝦夷地開拓を目的としてつくられた我が国最初の洋式城郭であり、後に函館戦争の舞台となりました。昭和二十七年に特別史跡に指定され、現在、堀の内側は公園として市民や観光客の憩いの場となっております。 続いて、道立函館美術館を視察いたしました。 当美術館は、地域の特性に沿った特色あるコレクションづくりを目指して、道南ゆかりの芸術家の作品の収集、展示に力を入れております。
それが明治二年になりまして、松前藩が所管をしているところの蝦夷地を北海道と直して、そうでない択捉と国後というのはこれを千島国と名づけたというんですね。その後、明治八年に千島と樺太の交換条約で日本に戻ったときに、戻ったといいますか、交換できた土地を千島国に編入したというんですね。だから、北千島も南千島も行政区画上千島の国となった。
最後に大臣に重ねてお伺いしますが、アイヌ対策の第一の出発は、われわれ、と言うと非常に誤解を受けますが、和人側のこの蝦夷地と言われた北海道、これに対する進出、その生活基盤を奪う、民族的な、よって立つところのものを奪ってしまった。そうして、旧土人保護法という名の中で同化作用を進めている。そこで屈辱が生まれてくる。そしていま、生活もそういう状況になっているのです。
○井野委員 明治政府になってから蝦夷地の資源というものに目をつけられて、国家経済に寄与するところ大であるというので多くの人を送り込んだけれども、積雪、寒冷その他の事情によって犠牲を払ったけれども、必ずしも意のごとくならなかった。それは北海道民にだけ犠牲を負わせてはいかぬから国が特例法をもってやる。特に戦後残されたところであるということで昭和二十五年に立法されたんでしょう。違いますか。
明治二年八月十五日、それまで松前蝦夷地と呼びならわされていた地方を北海道といって、国郡を分けたとき、北海道本島の東北部に位置する国後及び択捉の二島を一国として、これに千島の名称を与えた。これは経過ですよ。その次に、明治八年、一八七五年、千島樺太交換条約によってウルップ島からシュムシュ島に至るいわゆるクリル諸島がことごとく日本領となって、これらの島々を千島国に編入した。