1993-11-08 第128回国会 参議院 決算委員会 第3号
現在、広大なインドネシアの諸島ですが、当時、蘭領東インド、私ども子供のときから蘭印という呼び名で覚えておりましたが、日本はオランダには宣戦布告しなかったのであります。ところが、日本が米英両国に戦いを宣しました翌日にオランダ側から戦いを宣してきた。そこで日本はオランダとも戦端を開き、この地方からオランダ軍を一掃いたしまして、この土地をも本来の住民に解放したわけであります。
現在、広大なインドネシアの諸島ですが、当時、蘭領東インド、私ども子供のときから蘭印という呼び名で覚えておりましたが、日本はオランダには宣戦布告しなかったのであります。ところが、日本が米英両国に戦いを宣しました翌日にオランダ側から戦いを宣してきた。そこで日本はオランダとも戦端を開き、この地方からオランダ軍を一掃いたしまして、この土地をも本来の住民に解放したわけであります。
それから戦地は、昭和十六年十二月八日以降戦闘地域となりました中国、旧仏領インドシナ、タイ、ビルマ、旧英領マレー半島、旧蘭領東インド諸島、オーストラリア、フィリピン諸島、太平洋及びインド洋上の島嶼等でございまして、また千島列島、樺太、北朝鮮、南西諸島等につきましても、それぞれの期間を定めまして戦地と指定いたしております。
これは古い歴史にさかのぼれば、蘭領東インド時代の東インド商会というようなものの悪い記憶が現地にありますし、また大東亜戦争中に同種の日本の国策機関というものがありまして、これが当時の大東亜共栄圏建設の一つの手段のように解されておったわけであります。
西ニューギニアの問題は、インドネシア側としましては、旧聞領東インド全部が独立するのだ、つまりオランダとの間の円卓協定によって、インドネシアとして独立を認められるのは旧蘭領東インド全部にわたるものである、そうなりますと、西ニューギニアも入るのでありますが、こういう考え方を持っておったのに対して、オランダ側は、そうじゃない、西ニューギニアは地理的にも歴史的にも民族的にも別種のものであるという考え方で対立
香港を見ましても五名、南鮮に五百五名、蘭領東インドにおいても二十七名、北部仏印においても四十五名、フィリピンにおいても十三名、琉球においても二百四十四名、東南アジアにおいて二十八名というふうに、基本数が月々の発表によつてみな違つておる。こういうでたらめな基本数を基準にして、残留者の数を推定することはできないと思うのです。
○倭島説明員 今横田委員がお持ちになつている資料と、私の手許にあるのと同じものかどうか知りませんが、おそらくそれは四と書いてある蘭領東インドというところじやないかと思います。