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16件の議事録が該当しました。

該当会議一覧(1会議3発言まで表示)

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1997-11-05 第141回国会 参議院 国際問題に関する調査会 第3号

これは学部横断的で、医学部から法学部、総合政策学部までいろんな先生方が絡んでおりますが、これはちょっと宣伝になりますが、四川省成都市遼寧省落陽市で環境保全都市開発同時発展モデルづくりというのを進めております。  その一つの重要な取っかかりとして、今、バイオ・ブリケット技術の導入というのをやっております。中国はどう考えても石炭依存体質から簡単には脱出できない。

小島朋之

1997-03-31 第140回国会 参議院 外務委員会 第7号

立木洋君 これまで七回行われてきた現地視察並びに調査、これは敦化市のハルバレイだけではなくして、吉林市の郊外、落陽市あるいは梅河口、さらには問題になっている杭州市や南京、さまざまなところで行われたわけですね。それらを調査した結果については、つまり砲弾の形として遺棄されている化学兵器と、そうじゃなくて化学剤そのものが缶に入れられて埋蔵されているだとか、さまざまな形で埋蔵されておる。  

立木洋

1994-06-21 第129回国会 衆議院 内閣委員会 第4号

柿澤国務大臣 従来、日本の領事館が広州、上海、または東北地区落陽というところに置かれましたのは、先生指摘のとおり、現在の中国経済発展臨海部中心に、また東北の旧工業地帯中心に行われている、日本経済活動もそうしたところに進出をしている部分が多いという点によっているのだと思います。しかし、御指摘のように、中国は大きな国でございますし、内陸部にも重要な都市がございます。

柿澤弘治

1986-02-17 第104回国会 衆議院 予算委員会 第10号

総領事館ですね、落陽の。そこにやはり専属の人がおるのですか、それが一つ。  もう一つは、これは文部大臣にもかかわるかわかりませんが、帰ってくる前にやはり日本語を勉強する、帰ってくる前に現地で勉強する、それくらいは日本が出して、先進国ではみんなやっているでしょう、文部省は。バリだとかロンドンだとかワシントンだとかというところでは、商社の子供たちのための日本語学校というのをやっているわけです。

川崎寛治

1985-03-28 第102回国会 衆議院 内閣委員会 第8号

ちょうど三十年くらい前に訪中いたしました際に、落陽在留邦人の方々と会って事情をお聞きして以来、私もこの三十年間、受け入れの仕事に参加して、岩手では、実は県独自で宿舎も持てば日本語教育もし、あるいは職業訓練所にも入れるというふうな経過を持って運動を進めてまいりましたが、この間、御調査によりますと、日本の厚生省あるいは外務省が把握しております残留孤児の数と、それから昨年でございましたか、渡部厚生大臣がおいでになったときの

小川仁一

1985-03-28 第102回国会 衆議院 内閣委員会 第8号

○北村(汎)政府委員 ただいま委員の方から、既に四年前に落陽総領事館必要性について御指摘があったということを伺いまして、私どもも、今回瀋陽総領事館が開設されるに至りましたことを適切なことだと思っております。  在外公館の数は、現在実館で百六十八ございます。未公開になっておるものが二、三ございますけれども、百六十八ということでございます。

北村汎

1972-06-13 第68回国会 衆議院 公害対策並びに環境保全特別委員会 第27号

落陽佐藤内閣をささえるただ一本の柱はあなただ。あなたがそうふやふやしていては困る。しかしこれはほんとに大事なところなんです。保安林の価値があるから、それを切ってもらいたくない農民が、無断でやったのに対して訴えて勝ったのですから、勝った以上、保安の立場からすると、当然国の態度としてももっともっと考えなければならないはずです。どうもその辺あいまいなんです。

島本虎三

1969-04-15 第61回国会 衆議院 内閣委員会 第15号

○木原(実)委員 実は大臣、私十年ほど前に満州に参りまして、昔の奉天、いま落陽と申しますけれども、そこへ参りましたときに一人の日本婦人がわれわれをたずねてまいりまして、初めて実情がよくわかりました。それは向こうに居留民会というようなものがございまして、その会長さんは、当時奉天の公立の病院児童科長さんか何かをやっておったお医者さんでございます。

木原実

1956-08-10 第24回国会 衆議院 海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会 第17号

次に、一般邦人引揚者について申し上げますと、これらの人々は、土木建築通信関係技術者、医師、教師等が大部分を占めておられるようで、大半が経済建設のために残留させられた人々で、残留地はあまねく中国全土にわたっておりますが、当時判明いたしておりましたうちでは、西安の二十五名、方正の十三名、武漢、西寧の各十一名、重慶落陽の各十名、上海雅安の各九名等が多いようで、南は貴州、西は青海の辺境からも帰ってきておられます

眞崎勝次

1955-05-12 第22回国会 参議院 社会労働委員会 第5号

今回も天津まで来られまして、子供さんを連れてまた瀋陽に帰った御婦人がございますが、その人の場合などは、日本に帰っても果してこの中等学校に行っている子供を、乳飲み子をかかえつつ教育していくことができるかどうかという不安のもとに、日本に帰ることをやめられて、また落陽の方に戻られました。  

丸田美佐子

1955-05-12 第22回国会 参議院 社会労働委員会 第5号

参考人丸田美佐子君) 落陽公安局外僑課におきましては、中国人の係員は非常に親切でありますが、朝鮮系係員の人は非常に不親切でありまして、話なども日本語は非常に達者なために、ある程度憤慨をせざるを得ない場合が非常に多いと思います。そうして今残っている人たちも、公安局のそういう鮮系の工作員に対して非常に反感を持っております。

丸田美佐子

1955-05-12 第22回国会 参議院 社会労働委員会 第5号

参考人丸田美佐子君) 私は落陽で申請をいたしますときにも、将来は帰ってくるという目的てもって帰るということをはっきり申し上げて帰りました。なお、向うの係の方は、外僑の係の方は、今日本に帰ってもすぐにはむずかしいでしょうが、あなた方の実力をもって日本政府にお願いするよりほかはないでしょうというお話しでした。

丸田美佐子

1953-02-18 第15回国会 衆議院 海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会 第7号

私らは落陽市立病院におりましたから、東北の方とやり方もかわつておるのじやないかと思われますが、三反運動を学習して、それを約三箇月くらいやりました。いろいろな各機関でやりまして、おのおのやり方はかわつておるのですが、非常にいい結果をもたらしたところもございますし、またかえつて悪かつたのじやなかつたかというような場所もございます。

井上真久

1953-02-18 第15回国会 衆議院 海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会 第7号

この連合病院というのは、大体落陽市内の個人開業医が、政府衛生局の指導で一緒にまとまりまして病院をつくつたのであつて組織とか、そういうものからいいまして、大体表面は個人開業医の資本と医療器材でできた病院ですけれども、大体政府機関と同じような組織で、その連合病院から、かつてにほかの病院へ移るとかいうようなことはできなくて、組織の上でもやはり衛生局の許可がいる。その病院に入りました。

井上真久

1950-10-31 第8回国会 衆議院 海外同胞引揚に関する特別委員会 第11号

落陽の解放の前にあたりまして、向うに移動した衛生部隊とぼくは直接ぶつかりましたが、この部隊には日本看護婦さんはみんな徒歩で、瀋陽からさらに南下作戰天津北京方面に分散されて移動されておりました。それは昭和二十三年の話でありますが、二十二年のころに至つては臨清地区にも約五十名近くの看護婦がおりまして、だんだん分散されておるような形で、その後天津にもおりました。

松井茂雄

1947-08-05 第1回国会 衆議院 文化委員会 第3号

これに應じまして貿易廳といたしましては、東京におきましては、舊帝室林野局の建物全部竝びに住友ビルデイングの三階以上の二箇所、京都におきましては、京都の舊落陽ホテル、大阪は病院を改造いたしました。それから名古屋にも、さらに一箇所設置するということで、目下著々とホテル設備を急いでおりまするが東京の二箇所は、すでに外部の工事は全部でき上がりまして、目下内部設備を急いでおるような次第でございます。

新井茂

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