2011-05-02 第177回国会 参議院 予算委員会 第14号
荻生徂徠がこういうことを言っております。遠大の知恵あらば、煩細なる働きなくともしかるべしと。リーダーは大きな、そして遠くを見る知恵があれば、煩細なる働きなくとも物事は成っていくと。これを拳々服膺していただきたいということを申し上げて、質問を終わりたいと思います。 ありがとうございました。
荻生徂徠がこういうことを言っております。遠大の知恵あらば、煩細なる働きなくともしかるべしと。リーダーは大きな、そして遠くを見る知恵があれば、煩細なる働きなくとも物事は成っていくと。これを拳々服膺していただきたいということを申し上げて、質問を終わりたいと思います。 ありがとうございました。
これは荻生徂徠の弟子がつくった言葉だといいます。経世済民というのは、世を安定させ、そして国民を幸福にする。これが経済なんですよ。だから、経済学だとか経済を語る人は、やはり国民を本当に幸福にすることをしなきゃいけない。 ところが、小泉構造改革時代、大変失礼ながら、御用学者と言われるような方々は全く逆のことをやってきたわけですね。すべて経済は結果ですから。
荻生徂徠と新井白石が両方が論争をしたということをちょっと読んだことがございます。 これ、私的な所有権確立いたしましたのはたしか明治時代になってから、農民のものだというふうになりまして、その後、商業資本が入ってまいりまして、資本主義経済が発達して商業資本が入ってきまして、没落する農民層が増えて、小作人がずっと増えてくると。で、戦後、農地改革に至ると。
山縣周南という、荻生徂徠の弟子だそうですが、その漢詩を送られたわけでございます。それは「子和の参州に之くを送る」という題の詩なんですが、子和というのは人の名前の通称のようでございまして、江戸時代の宮城県の漢学者、平野金華のことでございます。「唄うるを休めよ」というので始まるわけです。「唄うるを休めよ 陽関三畳の詞」という、要するに国会で余りがあがあ質問するなという意味です。
かつて、荻生徂徠は、「弁道」という書の中で、「先王の道は天下を安んずるの道なり。その道は多難なりと雖も、要は天下を安んずるに帰す」と喝破いたしました。政治的指導者の責務とは、「能く万人を合して」「天下を安んずる」ことにあると言わなければなりません。これこそが、政治指導者が身をもって示す理想の道であると思います。
まず、冒頭、荻生徂徠を引用されながら、政治理念、政治姿勢についてお尋ねがございました。議員は、その荻生徂徠の言葉を引用され、「先王の道は天下を安んずるの道」と述べられました。私は、同じことを少し違った言い回しでお答えをすることになるのかもしれません。
ですけれども、最後のやはり外務省の処置については、これはこの法を守るのが大切なのか、人間の生命が大切なのかという非常にむずかしい、これは荻生徂徠でも連れてこなかったらもう解決できないようなむずかしい問題だと思うのです。これを私はここで論議するつもりはないのですが、最後にとった外務省の処置、これについては、私はこれからの国会で問題にしなければならない、問題になるべき点だと思うのです。
本居宣長とか荻生徂徠なんという学者は、明治以来あれだけの学者はまだ現われないと思う。本居宣長の研究をするだけで、文学博士が十人も出る。それだけの大学者であるのに、彼は一日も大学に行かずして、自学自習をして、各大名の家から本を借りてきたり、行って見せてもらったりして、苦心惨たんしましたが、とにかくあれだけの学問をやったわけであります。ゆえに図書館というものは、非常に大事なものであります。
○冨吉委員 ただいま長官から承つたのでありますが、なるほど荻生徂徠も、いり豆をかじつて人の悪口を言うくらい楽しいことはないと言つたように、日本人の悪いくせであることは長官とまつたく同感であります。これは確かにそうであります。しかしながら私は今言うように、機構内において世間に多少の疑惑を持たしめた人物を御採用になつたことについて申し上げている。
どうも私は先ほどもちよつと申しましたけれども、荻生徂徠の言葉に、煎り豆を噛つて人の惡口を言うほど樂しみはないというのがありますが、この言論、出版の自由が與えられたのを奇貨といたしまして、あることないこと人の惡口を書き散らし、言い散らしする傾向が相当世間に流行いたしておりまして、この点はまことに日本民族の將來にとつて嘆かわしいことであると私は考えております。