2003-02-28 第156回国会 衆議院 予算委員会第三分科会 第2号
十七世紀、荻原重秀、これは金貨の中に含まれる金の含有量を少なくして、同じ金で一・五倍の通貨を発行した。これで日本は初めて貨幣経済の世界に入った。徳川吉宗の時代に、また新井白石の改革によってデフレに戻っていった。そこで吉宗もまた通貨を発行した。それから明治維新、太政官札を発行した。細かく、いろいろな藩の改革の中では、山田方谷先生の改革でも同じことをやっています。
十七世紀、荻原重秀、これは金貨の中に含まれる金の含有量を少なくして、同じ金で一・五倍の通貨を発行した。これで日本は初めて貨幣経済の世界に入った。徳川吉宗の時代に、また新井白石の改革によってデフレに戻っていった。そこで吉宗もまた通貨を発行した。それから明治維新、太政官札を発行した。細かく、いろいろな藩の改革の中では、山田方谷先生の改革でも同じことをやっています。
しかし、私は、遠く徳川・元禄時代の経済運営を牛耳った荻原重秀という人の言葉を連想します。すなわち、それは「瓦礫も官府の印を刻めば、これ通貨なり」。つまり、かわらのかけらや小石でも、徳川幕府の判こを押せば通貨だという発想です。物的な担保がなくても、政府の信用のもとに自由に通貨を発行できるという危険な発想につながります。
○政府委員(窪田弘君) 荻原重秀は、元禄九年、一六九六年から正徳二年、一七一二年まで勘定奉行でございまして、ちょうど江戸幕府の財政難に対処するために貨幣の改鋳を行ったことで知られております。 この経緯は、新井白石の自叙伝であります「折たく柴の記」に詳しく出ておりますが、それを見ますと、幕府が年々収入する金は年に七十六、七万両である。