2007-11-15 第168回国会 参議院 文教科学委員会 第3号
ショパンやらいうのはどんどん弾いても、それで荒城の月を弾いたらすばらしかったというふうな話をよく聞きます。 そういうことから、私は、前から日本の音楽、日本の芸術、伝統芸能の大切さということを私は思っておったんですが、今年の十一月の中央教育審議会の初等教育分科会の教育課程部会の審議の中間のまとめ、伝統文化の継承というのが提起されておりました。
ショパンやらいうのはどんどん弾いても、それで荒城の月を弾いたらすばらしかったというふうな話をよく聞きます。 そういうことから、私は、前から日本の音楽、日本の芸術、伝統芸能の大切さということを私は思っておったんですが、今年の十一月の中央教育審議会の初等教育分科会の教育課程部会の審議の中間のまとめ、伝統文化の継承というのが提起されておりました。
また、中学校におきましては、我が国で長く歌われ親しまれているもの、我が国の自然や四季の美しさを感じ取れるものなどの歌唱に関する教材選定の観点を示しておりまして、教科書では、例えば「荒城の月」でございますとか「夏の思い出」、「赤とんぼ」、「花」などの教材が掲載されているところでございます。
例えば廃墟とか荒城の月などというものもありますけれども、そういう、人が死んだり、うらぶれてしまったところにさえ美意識を感じるのが人間だということなので、それはそれで、また別の形での文化財になったりもするわけなんですが。 ですから、もし景観のこういう法律ができて、非常につるっとした無味乾燥な景観をつくっていくというような発想をする方がいらっしゃったら、そうではないだろう。
それが残念ながら、教科書の今度のゆとり教育、それぞれ各カリキュラム、その時間が少なくなっているんですけれども、例えば音楽とか図画工作とか体育とか、まさに情操の一番根幹となるところが何か少なくなって、私なんかはもう一番残念なのは、「荒城の月」がなくなったなんて残念でたまらないんですけれども、そんなことを思うと、やっぱり情操というのが、ある科学技術の中でも、だからこそ今うんと必要だと思いますので、童謡、
○政府参考人(御手洗康君) 御指摘がございました「荒城の月」、「赤とんぼ」等の我が国の伝統的な文化に根差す歌曲等の指導につきましては、委員御指摘ございましたように、さきに有馬文部大臣がお答えしたとおりでございます。
次に、昨年の三月九日の本委員会におきまして、私のふるさと、大分県竹田市の駅でも流されております、そしてこれまで共通教材として必修とされてきました「荒城の月」、さらに「赤とんぼ」など日本の名曲が新学習指導要領には記載されなくなったことから、後世に伝えていくべき心にしみる日本人の心のふるさととも言うべき名曲が忘れ去られていくのではないかと私は質問の中で指摘をいたしました。
そんなさなか、またこれカリキュラムの問題になってまことに恐縮でありますけれども、音楽の時間がだんだんなくなって、しかも、これは私的なことになっちゃうかもわかりませんけれども、「荒城の月」がなくなるなんという話もあるんですけれども、最も大事なところが何か別な方向に、今、世の中で求められているところと逆の方向に何か教育の骨格が行くような気がしてしようがないんです。
現地での慰霊祭に流すテープは「誰か故郷を想わざる」や「赤とんぼ」、「さくら」、「荒城の月」です。最近では、さだまさしの「戦友会」、「防人の詩」を用意します。式の前には相手の国に敬意を表し、パプアニューギニアの国旗を掲げ、国歌を流すと、こうあります。 二十一世紀を前に、国際交流で必要なのはこういう態度、相手の国の人々や国の立場に立って考え行動する態度ではないかと私は思うわけです。
次に、私の郷里、大分県竹田市でありますが、ここに電車が到着をしますと、土井晩翠作詞、滝廉太郎作曲の名曲「荒城の月」のメロディーが駅のホームに流れ、ああふるさとに帰ってきたんだなという幸せな気持ちでいっぱいになるわけであります。 ところが、新学習指導要領では、中学校の音楽に、扇先生が主張されておったようでありますが、和楽器を体験させるということで、これは取り入れられております。
文部省といたしましては、今後刊行されます学習指導要領の解説書において、これまで示してきた共通の教材、例えば先ほど御指摘の「荒城の月」であるとかあるいは「赤とんぼ」などを参考資料として示すことといたしております。このようなことから、小中学校において「荒城の月」を初めとする我が国で歌い継がれ親しまれてきた音楽が今後も指導されることになるものと考えております。
そういう意味で私は、日本の農業の体質を本当にこの機会に強くするということは何より重要であり、また特に、実際に携わっておられる農業者の方々が意欲を持って仕事に立ち向かうということを確保しない限りは、非常に悲しい表現でありますが、城壁残って荒城の月というような話になりかねない、この点を十分に我々は考えてやっていかなきゃいけないのじゃないかと思っております。
そして、昭和五十四年八月二十四日が滝廉太郎の生誕百年の記念の日だから、滝廉太郎の切手なんかを「荒城の月」の楽譜等を入れて出したら非常に喜ばれるがということを言ったわけです。ところが郵政省はなかなか取り組まない。結局何ができたかといったら、小学一年から中学三年までの各学年それぞれ二曲ずつの歌を取り上げて十八曲の歌シリーズの切手を出した。
その中で施設もつくったが、それは「荒城の月」の歌を聞くような、たとえ話としては変ですが、そういうようなことにしちゃいけないので、やはりその産業自体は活性化を図るために、この間お願いしましたけれども、しかし、それとても往年の出たもの全部が、業種が全部隆々たる繁栄をして地区に貢献していくという状態ではなくなっているところに問題があるだろうと思うのですね。
これは「荒城の月」と同じように不朽のものです。そのオペラの発声法の問題や用語の問題もありまして、ほんとうに国民のものになっておりません。これを国民のものにするのにはどうすればいいか、ヨーロッパではオペラを年に二回聞いたならば犯罪は発生しないとまでいわれているのです。人の心に潤いができ、人間が人間であることを一番痛感して、そのために犯罪が減るといわれている。