2017-04-06 第193回国会 衆議院 本会議 第17号
当時の若槻礼次郎内務大臣は、まさにこの衆議院本会議場で、治安維持法が労働運動を制限するというのは甚だしき誤解であり、何ら制約を加えるものではないと繰り返し答弁しています。 しかし、実際には、日本共産党だけでなく、労働組合、宗教団体、学生サークルなど、あらゆる団体が弾圧の対象になりました。
当時の若槻礼次郎内務大臣は、まさにこの衆議院本会議場で、治安維持法が労働運動を制限するというのは甚だしき誤解であり、何ら制約を加えるものではないと繰り返し答弁しています。 しかし、実際には、日本共産党だけでなく、労働組合、宗教団体、学生サークルなど、あらゆる団体が弾圧の対象になりました。
これは、一九二五年二月二十日、若槻礼次郎内務大臣の提案理由説明であります。これを見ますと、世間にはこの法律案が労働運動を禁止するがためにできているように誤解している者があるようであります、この法律が制定されますと、労働者が労働運動をするについて、何らかの拘束を受けるというように信じている者があるようであります、このごときは甚だしき誤解でありますと。
一九二五年の第五十回帝国議会で、若槻礼次郎内務大臣は、人口十二万につき議員一人を配当すると定めたと述べておりますが、間違いありませんね。
かつての我が国の高橋是清さんも、若槻礼次郎内閣から犬養毅に政権交代した後、続けていらっしゃる。フーバーからルーズベルトもそうですよね。やっぱり政権基盤が続くということが担保されなかったら、それは十兆円入れようが二十兆入れようが、そこにする投資効果というものは極めて不確かになる、期待値が下がってしまうんですね、続く保証がないわけだから。
手元に、一九二五年の治安維持法の本会議において、当時の憲政会の加藤高明内閣の若槻礼次郎内務大臣に対して、星島二郎議員、そしてさらに三番手として鳩山一郎議員が代表質問を行っている。委員会質問も星島二郎議員が行っておられます。 「普通選挙を断行せんとし、貴族院改革を致さんとする現政府を支持致して居る一人であります、」星島二郎議員はこのように冒頭で述べております。
戦前も若槻礼次郎さん始め、立派な方が貴族院議員として総理大臣の責めを全うされました。アメリカの大統領選では、六年間任期の上院議員と四年間任期の知事が争う形態が最近あります。 総理大臣の資質のある方は、与野党問わず、参議院の方にもおられると思います。資格要件は参議院を含めた国会議員にすべきだという意見を再度強調したいと思います。
ここで言われております幣原、若槻、浜口というのは、言うまでもなく、一九二〇年代に、今申し上げました大正デモクラシーの時代に英米協調の国際協調外交を展開した我が国の政治家、幣原喜重郎は戦後も総理大臣を務めますし、若槻礼次郎、浜口雄幸、これも総理大臣を務めた人物でございます。
その昔は、若槻礼次郎内閣、昭和六年のときには官吏俸給令のカットをしているんですから、いきなり。かなり激しく、やはりサービスが中心である行政であればあるほど、どれだけの人でそれを賄うかということが非常に大事になる、人件費の問題ですから。
若槻礼次郎内閣でありますが。
次に、大正十四年の改正、これは若槻礼次郎内務大臣の見解であります。このときは御承知のとおり中選挙区制をとり、しかも国民全部に選挙権を与えた大改正のときです。その中の一節に、「実験ノ結果ニ体依ルト、小選挙区ノ方ガトウモ競争ガ測烈デアッテ、時ニ体ルト暴力ヲ用ユルヤウナコトガ、大選挙区ヨリ小選挙区ノ方ガ多イ、サウ云フ点ハ小選挙区制ノ弊害デアラウト思ヒマスここう述べられております。
○西山委員 大正十四年にいわゆる中選挙区、三人ないし五人の制度がつくられましたときの第五十回帝国議会、大正十四年二月二十一日のその提案者である若槻礼次郎国務大臣の提案理由の説明を読んでみますと、「府県を基礎として、之を議員定数三名乃至五名の選挙区に分割致しました」とあります。この伝統は恐らく引き継がれているのではないかと思うわけでございます。
これは大正十四年、時の若槻礼次郎国務大臣が真剣に考えて、我が国の政治は中選挙区主義をとろうということで六十年間貫いてまいりました、いわば憲法に匹敵する大事な大事な政治の原点だと思うわけでございまして、それを一時的にしろ変えるということは許されない。
大正十四年、先ほど田邊提案者からもお話がございましたように、時の若槻礼次郎国務大臣は提案理由の説明の中で、「二名以下又ハ六名以上ト云フガ如キ例外ノ選挙区ヲ設ケナカッタノハ、中選挙区ノ主義ヲ徹底センガ為デアリマス」と述べておりますけれども、普通選挙法以前の大選挙区、小選挙区の弊害を除去する制度として定数三ないし五の中選挙区制で出発をした。
御承知だと思いますけれども、大正十四年、この治安維持法が帝国議会で問題になったときに、若槻礼次郎さん、内相が、あの国会でどういうふうに話していますか。この治安維持法が出たって無産階級の人の運動を妨げることはない、拘束すことはない、言論も文章も自由は決して妨げません、こう述べたじゃないですか。述べた後、治安維持法が出た。
若槻礼次郎が何と言ったか、国の財政を知ったが地方財政は知らない。われわれもそうです。今日の役所の人もそうです。この国会においても同様です。しかも行政において国と地方とが関連のある形においていかなければならないと同時に、かくのごとき姿においてただ役人根性で法律まで踏みにじってやるというような、こんな整理ではいけない。
(拍手) 大正十四年に小選挙区制から現行の中選挙区制に改正する際の政府提案の理由は、国務大臣の答弁として、若槻礼次郎氏が、小選挙区になると、どうしても競争が激烈になり、ときによると力によって選挙の上に影響を及ぼさんとするものが出たことは、御承知の通りであります、同時に、なかなか費用も多くかかる、小選挙区制は決して大選挙区の害を除いておらないのである、と言っておるのであります。
森永君だつて大体若槻礼次郎の孫をもらつてるじやないか。いい中学を出、いい高等学校、いい大学を出ておる。温室育ちである。こういう諸君だから、大蔵官僚はほんとうに悪い、一向人情がない。また実際言うと、絹のふとんで寝ておつて、いいところと閥族結婚をして、いい学校を出ておる。こういう人間でなければ入つておらぬ。しかも大蔵一族だと称しておる。実際見てそうだ。だからあなたの言うように、今にも手配すればできる。
更に第二次の加藤高明の内閣の際に若槻礼次郎氏を以て充てております。更に第四番目には浜口雄幸氏の際に、同じく幣原喜重郎氏が代理をされています。第五番目に犬養毅氏が五・一五事件の遭難の際に高橋是清氏がこれに当つています。更に岡田啓介氏が二・二六事件の際に後藤文夫氏、参議院に出ておられます後藤文夫氏が臨時の首相代理をなされて、六回あるわけであります。
だんだん殖えて参りますというと、例えば最初目的にいたしました破壞活動の取締という名目によつて共産党の破壞活動を取締るという先ず目的を持つておられるかも知れませんが、或いは治安維持法の場合に当時の特高警察が共産党の幹部を挙げて行つたら、だんだん周辺に及んで行つて、或いは労働運動をやつておる者、或いは雑誌「労農」に立籠つておる人たち、或いは企画院の役人に及び、或いは治安維持法の提案理由の説明をせられた若槻礼次郎氏