1956-10-29 第24回国会 衆議院 海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会 第21号
あるいは今度また芝罘とか連雲港だとか、そういうところも日本の船に開放したように聞いておるのであります。私どもも大連に参りましたら、大連にも日本の船が二、三隻入っておりました。そういう状態で、しかも向う側としては、受け入れるということについて、そう困難の事情はないように私どもは承わって参ったのでありますから、どうぞ一つ積極的に進めていただきたい。
あるいは今度また芝罘とか連雲港だとか、そういうところも日本の船に開放したように聞いておるのであります。私どもも大連に参りましたら、大連にも日本の船が二、三隻入っておりました。そういう状態で、しかも向う側としては、受け入れるということについて、そう困難の事情はないように私どもは承わって参ったのでありますから、どうぞ一つ積極的に進めていただきたい。
ことにハンドワークのようなもの、ドロンワークというようなものは汕頭にしろ芝罘にしろ、ほとんど大部分向うへ行っておった。ところがこれがああいうふうにロックアウトされてしまって、そうして米中間の貿易というものは全然ない。
○中村参考人 三浦武美元駐満公使、中村博元大連埠頭局港湾部長、武田角太元芝罘特務機関長、福江三郎、森繁男、中川貞好、松本貞治、渡邊藤雄、安藤道夫、田上藤藏、以上の人だけが名前がわかつているのですけれども、もちろん名前のわかつていない人も入つているように思います。