1957-04-16 第26回国会 参議院 議院運営委員会 第31号
秋山君は、昭和三年三月大学卒業後、逓信省に入り、東京逓信局規画課長、簡易保険局積立金運用課長、大臣官房文書課長等を歴任し、興亜院調査官、陸軍司政官を経て、同十九年二月運輸通信省に入り、企画局第四課長、北海海運局長、運輸大臣官房長、海運総局海運局長、海運総局長官を歴任し、同二十四年六月運輸事務次官となり、同二十七年一月退官して今日に至ったものでありまして、現に日本空港ビルディング株式会社取締役社長及び
秋山君は、昭和三年三月大学卒業後、逓信省に入り、東京逓信局規画課長、簡易保険局積立金運用課長、大臣官房文書課長等を歴任し、興亜院調査官、陸軍司政官を経て、同十九年二月運輸通信省に入り、企画局第四課長、北海海運局長、運輸大臣官房長、海運総局海運局長、海運総局長官を歴任し、同二十四年六月運輸事務次官となり、同二十七年一月退官して今日に至ったものでありまして、現に日本空港ビルディング株式会社取締役社長及び
湯河君は、大正十年、大学を卒業後、農商務省に入り、以来農林官吏として多年勤務し、その間、東京営林局長、興亜院調査官、農林省米穀局長、食糧管理局長及び農席次官等を歴任し、昭和二十年八月退官、その後、東京都次長を経て、現在は、農林中央金庫理事長等の職にあるものでありまして、昭和三十六年六月、鉄道建設審議会委員に任命され、同二十八年七月、同審議会委員に再任、本年七月三日、任期満了となったものであります。
久原房之は、向田が上海の興亜院調査官をしておつたころに、同人は萬和洋行の社員であつて、海軍経理部に雑品を納めておつて、高田の世話なつておつたのであり、終戦後引揚げてから、萬和の福岡出張所主任の伊藤衛一方に一年余り同居しておつたという経歴であります。これが萬和とのつながりは、萬和洋行なるものは由比又男の創設したものであつて、その理事を勤めておつた人間であります。