2019-06-25 第198回国会 衆議院 本会議 第32号
それは、明治における自由民権運動や大正デモクラシーにも匹敵する、民主主義のバージョンアップであります。令和デモクラシーとでも呼ぶべき、一人一人の主権者から始まるムーブメントを私は国民の皆さんに呼びかけたいと思います。 以上、不信任の理由はまだまだ語り尽くせないほどあります。残念ながら、安倍内閣は、民主主義と立憲主義の見地から、憲政史上最悪であると言わざるを得ません。
それは、明治における自由民権運動や大正デモクラシーにも匹敵する、民主主義のバージョンアップであります。令和デモクラシーとでも呼ぶべき、一人一人の主権者から始まるムーブメントを私は国民の皆さんに呼びかけたいと思います。 以上、不信任の理由はまだまだ語り尽くせないほどあります。残念ながら、安倍内閣は、民主主義と立憲主義の見地から、憲政史上最悪であると言わざるを得ません。
○参考人(村井敏邦君) 日本の最初の共謀罪の規定というのは爆発物取締罰則でして、これは当時、明治初期ですが、の自由民権運動を抑圧するための法律として設けられたものなんですね。
○伊波洋一君 憲法には天皇の地位は男性に限るとの規定はなく、歴史的にも女性天皇は存在し、明治の旧皇室典範の制定過程や自由民権運動の民間憲法草案、一九四六年の臨時法制調査会においても女性天皇の容認論がありました。 明治以来の男系男子による継承は、何ら自明の日本の伝統などではありません。
思い起こすべきは、自由民権運動の時代、明治憲法の時代に、五日市憲法であるとか植木枝盛であるとか、いわゆる私擬憲法が地方から出てきたことは特筆すべきだというふうに思います。
それが、例えば自由民権運動を取り締まる、済みません、名前はちょっと定かではありませんけれども、新聞何とか条例というものができたり治安維持法というものができて、戦争に近づくにつれて、やはりそうした罪刑法定主義、そういうものの大切さというものがだんだん失われていく。 では、戦後はどうだったのか。戦争が終わったからといって、必ずしも刑法が大きく変わったわけではありません。
いわゆる八月革命説から大日本帝国憲法の改正という手続をとった日本国憲法でありますが、大日本帝国憲法は、立憲君主制のもと、国会開設を目指した自由民権運動、アジア初の憲法制定、そして、大正デモクラシーや普通選挙法などの民主主義の実現という成果を上げる一方、天皇大権を利用した軍部などの台頭を抑えることができず、報道の自由などもないがしろにされ、明治憲法体制の全面的崩壊現象が昭和二十年に起きたと考えております
明治以降の歴史を振り返った場合に、選挙権、参政権をひもとけば、一八七四年、明治七年に板垣退助らが民撰議院設立建白書を提出したことが口火となって、自由民権運動が大きく広がり、議会制定をかち取りました。
この、ある種の人間に対する不信感、言いかえれば、自分自身も含めた人間の弱さ、不完全さに対する冷徹な認識は、トーマス・ジェファーソンの、信頼は、どこでも専制の親である、自由な政府は信頼ではなく猜疑に基づいて建設されるという言葉、さらには、その百年後、まさにこの土佐、高知の自由民権活動家植木枝盛が述べた、世に良政府なしという言葉にも見ることができると思われます。
その後、高知市立自由民権記念館を視察いたしました。同館は、高知市制百周年記念事業として平成二年に開館したもので、自由民権運動発祥の地を自負する高知らしい施設として、国内外から見学者を集めているとのことであります。 次に、高知港の耐震化・津波対策事業及び南国市に整備された津波避難タワーを車中から視察いたしました。 以上が調査の概略であります。
つまり、伝統的な様々な日本の中にあった様々な価値、明治憲法以来、自由民権運動以来のものと、外から女性の権利に対する熱い思いを持った、占領軍にいたたまたまそういった女性たちのまさに合作が日本国憲法である。憲法は、シンプルに、簡単にこっちとこっちでできるものじゃなくて、複雑なプロセスを経たモザイクのような一つの芸術品です。だから、弱点だらけであるし、その解釈も多様であるし、様々な問題を持っています。
明治維新で、愛国公党を結成し、民撰議院の設立を目指して、言論第一と考える自由民権運動を始めたのは、板垣退助をはじめとする土佐の先人達であります。
この追及型の国会というのは、明治の議会ができたときに藩閥政府に対する自由民権派の野党の追及手段としてできた方式、一問一答方式でありまして、ほかの各国の議会は法律を作ることに専念しているんです。法律を作って、それで政権を縛ればいいんです。
自由民権運動の発祥の地でもあります。 住民の皆さん、これは民主政権でありましたけれども、昨年の十二月に住民の皆さん、そのときのこれが除染計画なんですが、民主政権下でしたけれども、国の対応を待っていたのでは、いつまでも町民が安心して生活できる状況を取り戻すことはできないから、町民の皆さん、我々で、嫌だけどやりましょう、除染したいならば仮置場造りましょうと、入口論から入ったんです。
自由民権運動もまさに、土佐でもありましたけれども、この東北こそ自由民権運動というのを起こした。それは人間性の復興なんですよ。そういうことも含めて、是非世界に発信できる日本の新しいモデルをつくっていただきたい。 そして、これは総理大臣、そして各大臣、復興大臣にも来ていただきましたが、この発電所、これは補助金だけで造ってはなりません。
そういう反骨、反権力の土地なんだから、歯を食いしばって貧しくとも生きていくんだということで、考えに考え抜いて、心の自由民権、人生主義というんですけれども、当時、オランダ・モデルというのが日本でも紹介され始めて、オランダ・モデルというのは、日本でいうと、国と経団連みたいな組織が協定を結びまして、いつからでも、どこからでも、何回でもやり直せる人生を国も社会も経済界も支援しましょうということで、例えば、子育
板垣退助といろんなつながりが、そのときにあったかどうかは分かりませんが、小説風に言えば、そうしたつながりがあって、西の板垣、東の河野と言われるように自由民権運動を支える二大巨頭になってまいります。
地方分権、三位一体改革について今日まで歴史の流れを振り返りますと、明治前半期の自由民権運動の国会開設につながり、昭和三年の第一回普通選挙においては立憲政友会は中央集権から地方分権へのスローガンで戦われました。その後、七十五年というんですか、一昨年ですから七十七年を経て今日、国から地方への構造改革が大きく第一歩を踏み出そうとしているところであります。
基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果で、過去幾多の試練にたえたものであるということを九十七条は規定しておりますけれども、これは、フランス革命などの市民革命を出発点として、その後の専制支配さらには軍国主義、ファシズムなどへの抵抗の闘いを指して、我が国では、自由民権運動や大正デモクラシーや、さらには戦前の治安維持法下での闘いというのも、当然のことながら、人権を具体的に憲法に保障するまでの
かつて明治時代に、自由民権派の中江兆民は、その著作「三酔人経綸問答」の中で、上から恵み与えられる恩賜の民権と下から進んでとる回復の民権について触れました。そして、最初は恩賜の民権であっても、市民がこれを大事に守り育てればいつか回復の民権に等しくなると述べています。
だけれども、一方、今度は立憲政治の方から見ると、憲法の運用を通じて政党内閣の実現も十分可能であるという判断がその当時から成り立っておったからこそ、憲法が成立してからわずか十年もたたないうちに、大隈重信は政党内閣の可能性について触れているし、議院内閣制の必要を説いて譲らなかった高田早苗が、聞きしにまさるよき憲法というような言葉を残しているし、自由民権の闘士と聞こえた植木枝盛も、この憲法によって西欧以外