1949-05-10 第5回国会 衆議院 商工委員会 第11号
このメリツトの問題において販売価格をとられたことに対して、これをつくつた配炭公団の方が、これはメリツトにあらず、自分たちの作業のために便宜的にこしらえたものでありますから、それをお考えに入れていただけば私はいいと思うのであります。決してこれはメリツトを立てたものではない。そこでそれをとるべきものではないということに対して、私は主張できると思います。
このメリツトの問題において販売価格をとられたことに対して、これをつくつた配炭公団の方が、これはメリツトにあらず、自分たちの作業のために便宜的にこしらえたものでありますから、それをお考えに入れていただけば私はいいと思うのであります。決してこれはメリツトを立てたものではない。そこでそれをとるべきものではないということに対して、私は主張できると思います。
そのことのためにノーワーク・ノーペイの原則で、自分たちは賃金を受けない。経営者は雇用契約に基き労働者が雇用されないための経済的な制約を受ける。しかしそれは爭議をやつている間だけがけんかの状態でありまして、爭議が終つた限りは、おのずから両者が相ともどもに生産に邁進しなくてはならぬことは当然な事柄であります。
そしてこの通り家は建つているのだということで、詐欺的な行為からは免かれようとするというような面で、庶民階級のなけなしの金を利用いたしまして、自分たちはほかの面に使つておる。それから今後の建築の見込みの状況を見ますと、何ら資材もない、土地もないという実態でありまして、これは明らかに詐欺犯罪として取上ぐべき問題であります。
これははずかしいながら、農民が実際に民主化されて、協同組合が自分たちの組合であるということを考えますならば、こういう人たちをおそらく役職員にはしないはずでありますけれども、しかしながら現実は、やはりこういう法律をもこしらえなければそういうことができないほど、農民がまだ民主化されていない一つの証拠である。
これは直接でありましたが、私の縣念するのは、この暴力行為の但書にありますように、その争議をやつております炭鉱経営者とは、表面関係のない方面から、いろいろなそういつた人を雇うて來て、自分たちは涼しい顔をして、その無言の非常な大きい脅威力を持つております暴力が、これら組合の諸君にのしかかつて、そうして正しい主張も、遂に暴力の前には葬り去られて行くという傾向が今までにもあり、この條文をつくることによつて、
私は産別民同を特にいじめようとは思わぬけれども、あなた方は都合のいいときは、へりくつを言つて、しかも自分たちが御用組合をつくろうというときは、そういうむちやをやるからその理論の矛盾をついておるのです。 その次にこの五條の点で、労働委員会に第三條及び第二項の規定に適合することを立証してもらつて認証を得よ、こういうことを言つている。
よく現場などでは自分たちだけ罰せられて、監督者は知らぬ顔をしている。また罰せられもせぬということになるので、常に問題になつています。やはりこの法律だけを離してみますと、公務員法によらずに、この法案だけで行けるような処置が必要ではないか。先から申し上げるように片手落ちのきらいがある。片手落ちのきらいがあつては、保安の目的を達成したり、仕事をしたりすることができない。支障があるように考えられます。
これは続いて御質問したいと思つておりますが、研修所というものの意味は、教育の担当者はもちろん、新しい学制に沿うために自分たちの研修ということを要求しております。
一例を申し上げれば、ただいまの各小中学校の教員あるいは高等学校の教員などが、福利厚生をみずからなそうという考えで協同組合をつくつておりますが、しかしこの協同組合を自分たちの福利面に十分に活用しようとするためには、どうしても自分たち自身がその衝に当らなければならぬわけであります。
今まで貯金は、インフレの高進時にあつては、政府の貯蓄増強に協力するということで、しかたなしにやつておる面がありますが、それを進んでやらせるのには、やはりインフレがこれ以上高進しない、ほんとうにささいな貯金でも、將來自分たちの生活に役に立つということを庶民階級に安心させませんと、おそらく目標がなかなか達成しないのではないか。
あるいはまた夏暑い場合に、炭鉱の爭議の場合などは窓を開いてやる、その窓には何百人という労働者が外からのぞいている、あるいはまたその中へ入つて來ているという場合に、勢い自分たちの生活の問題であるから、やじも飛ぶだろうし、喧噪にもなる、そういう場合にその傍聽者というものを禁止することができるかどうか。
ところが逆に、頭から改正は当然反動的内容を持つものであると予定して、先に改惡という新しい表現まで発明して、大々的に反対宣傳を國民大衆に植えつけてしまつたのでありますから、今この場合に及びまして、組合法改正の内容が、組合民主主義の徹底という進歩的な線に沿つて行われることが明白になりました今日においても、昨日まで改惡絶対反対であると言つていました手前、いまさら、あれは自分たちの軽率な断定に基く誤りであつたということを
それから日本の労働者階級はこういう條件の中で非常に苦しいながら自己の生活を戰いによつて確保して、そうして自分たちの力でこそ日本の生産は復興しなければならない、こういう方向へどんどん進んでおります。
一つは、労働基準法や安定法、労調法等の大幅の改正をして、自分たちの都合のよいようにして呉れるであろうと考えていた資本家、経営者たちの失望の声であると思います。
○伊藤(八)政府委員 まことにその点ごもつともでありまするが、われわれといたしましては誠意を披瀝しまして、いろいろ交渉申し上げておりまするが、いかんせん妥結に至らずして今日に及んでおる点は、自分たちの微力のいたすところであつて、実に申訳ないと思つておるのであります。できるだけ今後なお努力はしたいと思うのでありまするが、なかなか意にまかせない点が相当あるのを遺憾に思つておる次第であります。
○高田(富)委員 大体先ほどのお答えで自分たちの心配していることを非常に率直に述べていただきまして、事情はわかつたように思いますが、ついでにこの機会にお伺いしたいことは、それならばむしろ逆に、今まで各部局、各課あたりでは、仕事の実情から見て、むしろこの際定員をふやさなければならないくらいのところも、この中にあるのではないかと思います。
その勤労意欲を阻害するかのごとき條文が本案の幾箇所にも現れております事実は、今後労働者諸君が現内閣の労働政策に落胆をいたしまして、自分たちのせつかく燃え上がつた最近のいわゆる爭議の減少、生産の復興、こうした面がまた急カーブの下降線をたどり、しかもある時期においては、その労働不安が社会不安にまで助長され、しかも國民生活に影響を及ぼすことがあつたならば、この重大なる責任は、あげて本案を強引に與党の多数の
なお第二点は、反共的な言論をする者が外務省の職員の中にあるというお話でございましたが、不幸にして的確な事実をただいま承知いたしておりませんので、ここでどうとも申し上げかねるのでありますが、もしそういう者がかりにたくさんの中にあつたといたしましても、日ごろ、自分たちの與えられた題目として職務的に研究している問題が対外的の問題である関係上、自然いろいろの点について見解を持ち、また場合によつてはこれを表明
ちよつとそういうように受取れる節がありましたので、客観的な資料を收集しつつあるわけでありますから、もし不満があれば遠慮なく出していただくとして、逆に、これは完全に自分たちの望むところであつた。たまたま当局の決定もわれわれの考えているところをぴつたり一致したいというのであるが、その点もう少し明確にお答え願いたい。
そういう点をお考えになれば、惰眠をむさぼらせないために制限をつけるとか、安くするとかいうお考えでなくて、とにかく自分たちの政治のやり方が悪くて出した失業者なんだから、これはやはり、一般水準以上ということはないにしても、今のような状態では食うに必要なだけのものは出してやる。そうしてその負担に耐えられないなら、何とかして働く道を講じるような政策を、政府として講じなくちやならないのではないか。
又殖えたように実際の面で処置されるということに大体なつて行くわけでありますけれども、今日説明になつたように、実際はそうではなくて、千七百五十億円というものが與えられておつたわけなんで、それを自分たちは説明の便宜から三百三十円と、五億三千万米ドルというものを割算しておつたわけであるというようなことになるのです。
またわずかばかりの酒の配給を、自分たちの主食やその他きわめて必要な家庭の生活のために、これを他に轉賣して家計のやりくりをする、こういう人たちが今日多数あるのであります。
但し自分たちには労働強化やその他でやれないということでございましたけれども、大衆團体からおいでになつた方々の、議会の外の声として、週賃値上げ反対の御意見はよく今日は承つたのでございますが、あなた方の組織の下部の声をどういうふうにして反映させるか。
結局これは自分たちの生活に直接響き、自分たちの経営に響いて行くということから、廣汎に反対の声は起つております。反対の声が具体的に組織されて、こういう運輸委員会なら運輸委員会に反映させることができますれば、私たちにとつてこの上ない仕合せなことです。そういう点で、もしそういう日時がありますれば、そういうことをしたい。
(拍手)しかるに、今日の中学生は、制服制帽もさることながら、喜び勇んで登校する自分たちの校舎もなく、その教室があるいは寺院であつたり、あるいは馬小屋であつたり、しかも三部制、四部制というのでありましては、学校はもはや樂しい勉学の場所でもなく、心のふるさととも申されないのであります。