2019-02-27 第198回国会 衆議院 予算委員会第一分科会 第1号
二百二十年以上も前に老中松平定信からロシア船の見張りを命じられた栗田は、飛ぶ砂が田畑や家までも埋め尽くす本当にひどい状況だということに気づいて、砂どめのための植林を始めました。一本一本植林するところから今こうした地域がつくられたんだ、それがわかっているのかと大臣に聞いてくれと現地の人から託されてまいりました。 まず伺いますが、住民の理解を得るために努力をするとおっしゃっています。
二百二十年以上も前に老中松平定信からロシア船の見張りを命じられた栗田は、飛ぶ砂が田畑や家までも埋め尽くす本当にひどい状況だということに気づいて、砂どめのための植林を始めました。一本一本植林するところから今こうした地域がつくられたんだ、それがわかっているのかと大臣に聞いてくれと現地の人から託されてまいりました。 まず伺いますが、住民の理解を得るために努力をするとおっしゃっています。
今までの体制のもとで、老中がいて、そしてこれまでの幕閣がいてという体制から、我々はまさに新政府をつくろうということを目的に行動をしているわけであります。これがまさに、統治機構を道州制で変えて、そして我が国の政治文化を変えていくということであります。 ですから、我々の行動パターン、先ほど松野委員からもお話がありました、是々非々で行動します。
彼の藩政刷新の効果絶大で、板倉勝静は徳川幕府の筆頭老中にまで上り詰めることができました。方谷は勝静の右腕として活躍し、大政奉還の精神も彼が起草したと言われております。 現在の日本と同じような状態となっていた松山藩を実質一万九千石から二十万石の実力とまで言われるようにした山田方谷のこと、我々は、今、今後の参考に大いになると考えております。
先ほど私、二つのパターンのリーダーシップということを申し上げましたが、こういうどっかり座って、後は、この場合だと将軍はどっかり座って、当時、保科、これは老中でしょうか、そういう立場の人に中心になってやっていただく、こういうやり方もありますし、先ほど同じ林議員から御指摘があったジュリアーニ市長のように自ら陣頭指揮を執ってやられるタイプもありますし、またいろいろな組合せ方も当然あろうかと思っております。
私の選挙区は、佐倉あるいは八街というところを含んでいまして、佐倉は、「篤姫」とかに出てきた老中堀田正睦の堀田家の城下町であります。そうした歴史的な環境もありますし、また八街というところはピーナツが全国一ということで、そういった特産品もあります。
咸臨丸でアメリカに行き、帰国した勝海舟に当時の老中が、何か目に付いたことがあろう、再三再四聞かれた。勝海舟は次のように答えている。アメリカでは、政府でも民間でも、およそ人の上に立つ者は、皆その地位相応に利口でございます、この点ばかりは全く我が国と反対のように思われますると答えたら、老中が目を丸くして、無礼者、下がりおろう、こういうふうに激怒したとこの本に書いてあります。
責任者、将軍もそうですが、そのときの責任者、大老とか老中が次々かわる。しかし、何にも決められない。ただ時間だけが過ぎている。その状況と今似ている。そういう意見もありました。 この定額給付金、最初は、全世帯にお配りをすると総理は言われました。どうしてこれは全世帯にお配りすることが大事だと思われたわけですか。
そのような中でも、拷問をするのには町奉行が老中の許可を得なきゃいけないという制度があって、老中の許可を得るのは司法警察の恥にもなるので、そういう拷問をしないで自白をさせるというのを慣行になっていたというようなことも聞きます。
幕末の老中阿部正弘の話まで持ち出しましていろいろ強調されておりましたけれども、その地方六団体の意見、今回の政府案にどれだけ反映されたのか、この評価をちょっと冒頭お聞きしたいと思います。
前にこれは衆議院でどこかでお話ししたと記憶をしますが、一八五三年にペリーが日本に来航したときに、時の老中筆頭酒井伊勢守正弘が諸侯の意見を、(発言する者あり)済みませんでした、阿部伊勢守正弘という人が諸侯の意見を聞くということで、当時、役人や、旗本と当時言ったんですが、旗本というのの中に、御存じのような勝海舟辺りの国防会所なんというのが出たあのときなんですが、あれから比べてずっといろいろな流れが出て、
小泉総理は、三位一体改革の全体像の取りまとめに当たって、地方の言うことを聞いたのは、幕末の黒船来航の際に、時の老中阿部正弘が開国の可否を諸侯有司に問うとして以来、百五十年ぶりの画期的なことであったというふうに述べておられますが、私は、肝心かなめの税源移譲については極めて不十分であったと思います。
○麻生国務大臣 いろいろ評価の分かれるところなのかとは存じますけれども、少なくともこれまでの間に、松崎先生、この種の大きな決定をするに当たって、国が地方の意見を尊重して、地方の提案をベースにして事を進めたという例は、ペリー来航のときに、時の老中筆頭、福山藩主阿部伊勢守正弘が地方の列侯の意見を聞いたとき以来、百五十六年ぶりでこういったことをやったというのが正直なところなんです。
日本に戦前駐留しましたのは、あの生麦事件の後、文久三年に老中が変なことを言って認めちゃったものですから、それ以来明治八年まで横浜にイギリス軍、フランス軍が駐屯しておったというのが戦前の例でございます。
「この表現では御老中方に見せられないという高官と、ほかに訳しようがない、という諭吉が折り合わず、結局「競争」の一文字を黒く塗りつぶして提出したという。「競争」をきらうのはこの国の役人の伝統らしい。」という実はコラムがあるんです。
○遠藤(登)委員 いわば農業者の高齢化社会ということとあわせて生きがい対策ということもあって、何もかも後継者というわけにいかない深刻な人手不足の実情があって、高齢者の生きがいと中堅農家の就農と、中国ではないが老中青のそういう仕組みが相まって農業、農村の再建というか発展を期していくという構造の中では、大先輩の果たす役割も非常に大事な要件だと思うのであります。ぜひひとつ善処方をお願いしたい。
これは人生の全期間においてその人の意思と意欲に応じた能力開発が進められるように、特に事業主の行う能力開発に対する援助助成等を通じまして労働者の職業訓練というものを老中青それぞれの意思に基づいた機会をひとつ提供していこう、こういう考え方でございます。
万国が認めているようなことを偽って日本に強要したような条約に対しては訂正を申し込まなけりゃならぬと言われたが、安藤老中が坂下門事変で傷ついて、井伊大老の後を追おうとするような国内における騒ぎで帰ってきた。
安藤老中も井伊掃部頭よりは柔軟な外交専門家であったが、坂下門事変で要撃を受けたのは、主体性のない外交、これをぶち破らなければ日本の外交は外国から侮りを受けるだけで信用されないと思ったがゆえに、大橋訥庵その他がやはりこれを要撃したのです。われわれは要撃する必要はない。
を指摘した幕末の外交官の竹内下野守なり松平石見守なりが、ロシアの天文台に、ペテルスブルグに掲げられてあったイギリス製の地図が樺太の五十度以南は日本領に書かれているのであって、あなたの国の天文台が世界的に共通に掲げている地図には北緯五十度以南は日本になっているじゃないかと言われて、ついにロシアも屈せざるを得なかったという事例もあるので、破れたといえども幕末の崩壊期にあっても、腰抜け外交と言われて安藤老中
「この年正月、悪徳政治家として後世から評判のよくない田沼意次が、老中職に就任して権勢の頂点に立った。世にいわゆる田沼時代のはじまりである。偶然のこととはいいながら、いまを時めく田沼にとっては、安永の年号はまさにわが世の春をことほぐ天来の声と聞こえたにちがいない。」