2020-11-17 第203回国会 参議院 内閣委員会 第2号
私のふるさと福井は、第二十六代継体天皇、武烈天皇から二百年時間を遡って継承、十親等の違いがあるんですけれども。ふるさとでの歴史なんですね。
私のふるさと福井は、第二十六代継体天皇、武烈天皇から二百年時間を遡って継承、十親等の違いがあるんですけれども。ふるさとでの歴史なんですね。
皇位継承に関しまして、遠い傍系継承の例として、平成十七年度の皇室典範に関する有識者会議報告書の資料で示されている四つの事例を申し上げますと、第一に、第二十六代継体天皇は第二十五代武烈天皇から継承され、親等では十親等の隔たりがございました。
今答弁がありましたように、二十五代武烈天皇から十六代仁徳天皇、先ほどの民のかまどの、まで四代、約二百年さかのぼって、二百年、また四代おりてきて、二十六代継体天皇が五〇七年に御即位されてきたという歴史的事実がございます。 あわせて、資料一の緑色の部分に同様の事例がございます。
次に、親等の遠さ近さというのは皇位継承に当たって問題となるのかという観点から、第二十六代継体天皇御即位の背景に関して、宮内庁の理解を御答弁ください。
○池田政府参考人 継体天皇は、第二十六代天皇でございますが、先代の第二十五代武烈天皇が崩御されたときにお世継ぎがなかったことから、継体天皇が迎え入れられ、即位したものでございます。 武烈天皇と継体天皇は、ともに応神天皇の五世孫でございまして、親等では十親等の隔たりがございます。
ただ、旧宮家の復活とか、継体天皇の事例もございますし、こういうことをできるだけ可能性を探求すべきだとも思っております。 ただ、時間はございませんので、この委員会がいいのか、どういう場所がいいのか、安藤先生に怒られますけれども、超党派で静かに議論する場所を設けるのか、とにかく早くこれを決めていかなければ、私は時遅しになるというふうに危機感を覚えております。
私の地元にも、宇治には、仁徳天皇を天皇の地位に即位させるためにみずからを犠牲にしたと言われている菟道稚郎子という人のお墓がありますし、また京田辺市には、継体天皇が都を置いたという筒城宮というところがあったという記述もあります。
継体天皇は、第二十六代天皇であるが、先代の第二十五代武烈天皇が崩御されたときにお世継ぎがなかったので、第十五代応神天皇の五世の孫であった継体天皇が迎え入れられ、即位されたと、このように聞いております。
第二十六代継体天皇のお像がございます。子供心に不思議に思っておりました。 継体天皇のことを質問、事前通告しておりますので、ちょっと説明をしていただけますか。
奈良県天理市にある西殿塚古墳は、宮内庁によると、衾田陵、つまり継体天皇の妃である手白香皇女の墓というふうにしていますね。考古学の世界では、この西殿塚古墳の出土土器から考えると、三世紀後半から四世紀初めの古墳というふうに見られています。私も実際にこの古墳を見てまいりましたけれども、継体天皇は、もちろん六世紀の時代の方ですね。
継体天皇につきましては、日本書紀によりますれば、同天皇の二十五年、五三一年というふうに亡くなった時代について記されているところでございます。
だから宮内庁に伺っておきますが、継体天皇が亡くなられたのは何年のことですか。
この地域でございますが、継体天皇あるいは中江藤樹の生誕地としても知られておりまして、ことしはちょうど中江藤樹先生生誕四百年ということで、その記念のいろいろな行事も予定されているわけであります。最近では、この豊かな自然環境を生かして、観光にも特に力を入れているところであります。 現在、この静かな町で、地域住民の間で大きな不安が広がっております。
これは継体天皇ゆかりの地、男大迹皇子のいたところで粟田部というんですが、こんな宣伝はしなくていいんですが、粟田部というところがある。この粟田部地区の協議会は二十六区の千三十戸あるんですよ。ところが、条件として、必ずこの粟田部という名前を残してほしい、この自治区を認めてほしいということになったんですね。それで、二十六区にはそれぞれ町から補助金が来ました。区長さんもいます。
○吉川春子君 つまり、継体天皇が亡くなられたのが六世紀前半、それでは宮内庁が今継体陵としている茨木市の太田茶臼山古墳は何世紀に築造されていますか。
○政府参考人(田林均君) 二十六代の継体天皇ですが、没年は継体天皇二十五年、西暦五三一年でございます。生年については、日本書紀によれば、生年は四五〇年となっております。
○政府参考人(田林均君) 継体天皇は継体天皇二十五年、西暦五三一年に崩御し、それから現在の継体陵に埋葬されたと考えられておりますが、この陵の築造年代につきましては、はっきりした絶対年代というものを確定することが困難でございますが、その継体天皇崩御の前後というふうに考えられます。
○辻(一)分科員 越前平野は、昔、随分前の千五百年前に継体天皇が王子時代に住んでおったと言われて、そして奈良に出て政権をとったという歴史があるのです。その背景は越前平野の米の生産力による、砂鉄というのもあったそうですが、鉄と米によって政権をとったという歴史を聞いておりますが、それほど昔から米どころであるということですね。
私が言いたいのは、この継体天皇の奥さん、皇后の手白香皇后陵、これは古墳としては西殿塚古墳と言われているわけですが、ここから出た埴輪というのは特殊円筒埴輪というのが出てきています。これは四世紀前半のものなんですね。そうしますと、継体天皇と手白香皇后というのは夫婦であったということになっているわけですから、これで計算しますと大体奥さんの方が二百歳年上ということになる。
それから継体天皇ですか、いや二十五代の武烈天皇、その次が継体天皇です。この際ですから、そう推論するところの条件、背景というものはこの際省略をいたします。まあこの国会でそういうことを申し上げますのははなはだ勇気の要ることだと私自身思っておりますけれども。このことについては宮内庁などはどう理解しているんでしょうか。
あるいはもう一つお出しになりました武烈天皇から継体天皇への間、これは崩御から即位まで日にちは記紀の上での記録によればそうはございませんけれども、代をさかのぼっていけば、継体天皇は遠祖であります応神天皇の五世の孫というように記載をされているようでございまして、そういうふうに見ますと相当にさかのぼったところから連れて出てきていらっしゃる、それで継いでいらっしゃる。
ただしこれは皇室用財産に所属しておりませんで、現在民有に属しておると思いますが、これは事情を申し上げれば、だいぶ昔のことでございますが、私も書陵部長に着任したのはついこの間でございまして、急遽仕入れた知識でございますが、宮内省時代、これは非常に貴重な古墳である継体天皇の今城塚でございますが、その少し東のほうにございます。
五世紀半ばのものだろう、天皇陵に付属した古墳であるということで、これを何とか大阪府の教育委員会が発掘調査をしたいということを申し出ておるそうでございますし、もう一カ所大阪府の高槻市の今城塚古墳、国の指定になっておりまして、二十六代の継体天皇の御陵ではないかといいますが、その近くに継体天皇の実際の御陵があるそうで、それでそれをどちらか、いま申し上げました継体天皇の御陵であるというと一カ所取り消さなければならないことになる
それからだんだん進んで武烈天皇までいくと、まるで暴虐無礼な天皇がおられて、とんでもない暴行をせられたので、ついにその天皇を断ち切って、およそ皇位というところからははなはだ縁の薄い形の継体天皇を跡継ぎの天皇として持ってきておられる。こういうふうに何らかそこに一つの創作といいますか、一つの国民的な感情を盛り込んだ夢の世界というものが、ちょいちょい中に入ってきたような印象を受けてならないのです。