2016-11-25 第192回国会 衆議院 厚生労働委員会 第9号
この方の年金額につきましては、資料としてお手元に届けておりますが、高校を卒業し、大企業の紡績会社に就職、十八歳から六十歳定年まで四十一年間、厚生年金を掛けてこられました。この方の年金額は、何と月額十三万六千円です。お手元に年金記録の資料をつけております。ぜひ見ていただきたいと思います。 四百九十三月、四十一年の年金加入でこの年金額に山本さんは衝撃を受けたと述べています。
この方の年金額につきましては、資料としてお手元に届けておりますが、高校を卒業し、大企業の紡績会社に就職、十八歳から六十歳定年まで四十一年間、厚生年金を掛けてこられました。この方の年金額は、何と月額十三万六千円です。お手元に年金記録の資料をつけております。ぜひ見ていただきたいと思います。 四百九十三月、四十一年の年金加入でこの年金額に山本さんは衝撃を受けたと述べています。
あのテレビは僕は見なかったんですけれども、見た人の話を聞くと、余りよくわからないということを言っていたんですが、「町工場・復活のヘリコプター」といって、ごらんになった方もいらっしゃるようですが、これはヒロボーですから、名前が紡績会社であったわけですけれども、紡績業だけでは立ち行かなくなって、たまたまその社長の、松坂社長という、お父様が何かラジコンをやっていた、自分もプラモデルが好きだったとかいうことで
大臣が二日前に行われたタオルのセーフガードについての記者会見、これについて伺いたいんですけれども、平沼大臣は紡績会社に以前お勤めだったと伺っております。そういう経験からということもあるんですけれども、海外から繊維製品が輸入急増になる。それに伴って、例えばタオルでいいますと、今治の繊維産地の雇用と地域経済が大打撃を受けている、そういう実態が今あるわけですね。
私は当時紡績会社の社員でありまして、通産省の繊維担当部局に書類を届けるのによく行きました。通産省はとても怖い役所だったなと今改めて思っております云々ございまして、私は通産省にセーフガードの発動を何回かお願いをした経験があります。そのときにお答えになったのが江崎さんです。いろいろと技術的な問題もあるけれども、要は政策的な判断なんだと。
それから、着手するまでいろいろな紡績会社の跡地を全部クリアランスして、権利関係をいろいろ調整してやるのに十五年以上かかっちゃったんですね。私は、やはりそういう意味では、逆にこういう法律がもしあったら、今おっしゃる地価暴落があって、その結果、開発の負担がしょい切れないということはなかったんじゃないかなという気もいたしますが、いかがでございましょうか。感想を聞かせてください。
今回、タオル業界のセーフガードの申請、大臣も紡績会社にいらっしゃったので今のその業界のいろいろな実情をよく御存じだと思うんですが、確かに、日本的な処理の仕方、本当に、話し合ってうまくいけばいいというのは、一つ、和をもってとうとしという考え方もないわけではないと思います。
私ごとになりますけれども、実は私も政治家になる前十一年間、日東紡績という紡績会社で営業マンをしておりました。そういう形で、かつての同僚等から厳しい状況もよく聞いているところであります。 我が国の繊維産業は、先ほども御指摘がございましたけれども、製造業の中で見ると、雇用の一〇%を受け持ってくださっている。繊維卸、小売を合計すれば、関連雇用者数は約百九十万人。
○平沼国務大臣 私も実は日東紡績という紡績会社に十一年勤務しておりまして、綿紡を主体にやっていた会社でございます。先生の選挙区内にも昔は工場があったわけでございます。 今御指摘のように、海外からの繊維製品の輸入急増に伴う国内織物需要の減少によりまして、繊維産地の中小企業が非常に深刻な打撃を受けている、このことはよく承知をしております。
私は十一年間紡績会社に勤務をした経験を持っておりますけれども、つい昨日も労働組合の代表の方々が私のところへ来られまして、その実情を訴えられました。私も、本当に厳しい状況はそのとおりだと思っておりまして、今御指摘のございましたいろいろな問題についても、やはり前向きに対処をしていかなければならない、こういう基本姿勢を持っております。
小泉厚生大臣がそのために資金運用部運用というものがいいであろうかという問題を投げかけておりますが、ほかにいい利回りを確保できるような、しかも国民大宗が義務的に入っている厚生年金の運用が可能かな、こう思いますと、先生のお話しになるお話によれば、紡績会社の皆さんが利回りが確保できなかったというようなことは、当該企業主の挙げての責任なのかどうなのかと。
私自身も紡績会社の人間でありました。そして、繊維産業がその当時なぜ比較優位を持っていたか、それを振り返りますとき、優秀な若い豊富な労働力が供給されていたこと、これが当時の繊維産業を支えていた一つのかぎであることは御承知のとおりであります。私どもはそうした視点もこれから持っていかなければならないということを今日までも申し上げてまいりました。
造船所それから海運会社、建設会社、リース会社あるいはまた紡績会社、そしてまた、中にはバルブメーカーとか、さらに北海道テレビ放送に見ます岩澤グループ全体に関する問題でございます。これは、タクシー会社もございますし、放送事業もございます。その意味におきまして、あらゆる業種に関与してきたということが言えるのではないかと思うのでございます。
○橋本国務大臣 今、多少脱線するようでありますけれども、栃尾、見附あるいは五泉といった地名を聞き、大変懐かしく、私自身が紡績会社の社員として通いましたころを振り返っておりました。 というのは、ちょうど私は日米繊維騒動が起きました時期に社会人になり、紡績会社の社員となり、まさにアメリカ側の措置によりまして、製品倉庫の中にどんどんどんどん売れない原反が積み重なっていった時期の綿紡績の社員であります。
○橋本国務大臣 私自身、大学を出ました直後は紡績会社のサラリーマンでありました。そして、先ほど吉田委員から銭単位のお話が出ましたが、まさに私どもが、例えば繊維工場との間での工賃の設定は、銭単位どころか、当時はまだ厘が生きておるぐらいぎりぎりとした交渉をいたしておりましたので、むしろそうした実態はある程度存じておるつもりであります。
たまたま私は紡績会社の社員でありまして、いわゆる消費者のブランド志向というものに相当手こずった記憶を自分の体験でも持っております。また、たまたま先ほど来公取委員長との間で御論議がありました再販問題で、あるときは公取と協力し、あるときはぶつかり合ったと、そうした記憶も持っております。
と申しますのは、私自身が紡績会社のサラリーマンの出身でありますけれども、当時我々の企業はエルサルバドルに現地法人を持ち、現地の技術指導を行っておりました。ところが、当時どうしてもやはり管理者として、少なくとも管理級のポストには日本人を配置するという考えが抜けませんでした。今その状況は変わってきております。
○橋本国務大臣 私自身、社会人の振り出しは紡績会社の一員でありまして、栃尾、見附といった名前は、当時営業に歩いた本当に懐かしい場所であります。それだけに、それらの産地の苦境を委員から訴えられまして、非常に重い気持ちでお話を伺っておりました。
私は昭和三十五年に大学を卒業したわけでありますが、その時点で紡績会社の社員になりました。その時点における状況というものは、今、委員がお述べになりましたように、農山漁村から相当数のまだ中学を卒業したばかりの若い優秀な豊富な労働力が産業界に供給されておりました。そして、それらの優秀な若年労働力というものが当時の日本の産業界を支えておったと思います。
しかし、私の体験的に感じますこと、これは私自身が紡績会社の社員でありましたころにも通産省の玄関というのは大変怖い玄関でありました。申請書類を届けに参りましても、三回ぐらい深呼吸をして部屋の中に入る。係長さんのところから課長補佐の席まで二、三カ月の距離があるというのは当然のごどのような覚えを持っております。
○橋本国務大臣 私自身が、実はかつて紡績会社に籍を置いた人間として、今までなぜ日本政府はMFAを積極的に発動しないのかという思いはしばしばいたしておりました。これは、委員の御指摘のお気持ちは、私も同様のものを持ったことがございます。
私も知っているのでございますけれども、ある紡績会社なんというのは、もうかつての紡績部門は完全に縮小されてしまって微々たるもの、むしろ自動車産業の面に大いに進出をしておる、自動車のそういう部品をつくるといいますか、そういう方向に企業内容が変わってしまっている。
造船会社もしかりでございますし、紡績会社もそのような状況でございました。 また産業政策以外にも、例えば教育政策についても、明治五年には教育改革というものができまして、おいおい時間を追って義務教育制の完成をするというような体制もとってきたわけでございます。