2007-04-24 第166回国会 衆議院 決算行政監視委員会第二分科会 第2号
例えば、純文学と大衆文学みたいなので分けて、純文学は載っていますよ、いろいろ。だけれども、いわゆる大衆文学に分類されるようなものはなかなか載っていないし、これはどうして載らないのか。 もし何か御承知の部分があれば、最後に教えてください。
例えば、純文学と大衆文学みたいなので分けて、純文学は載っていますよ、いろいろ。だけれども、いわゆる大衆文学に分類されるようなものはなかなか載っていないし、これはどうして載らないのか。 もし何か御承知の部分があれば、最後に教えてください。
先ほどの例がよかったかどうかわかりませんが、やはり純文学が講談調になっていったりすれば、これはある意味じゃ文学の自殺行為であろう、このように思います。やはり報道といいますものは、報道のあるべき姿、哲学というものがあろう、このように思いますから、そういう面で進んでいっていただきたい、このように思う次第でございます。
例えば文学、純文学といいますのは人間のありのままの姿を追求していく、あらゆる切り口から内面に人間そのものを追求していくのが純文学、私はこのように思います。一方の大衆文学、大衆小説、娯楽小説、例えば推理小説なんかは小さな子供が難解な事件を知恵を絞って幾つも幾つもたちまち解決をしていく。また「ランボー」みたいな男が出てきて悪人をばったばったと倒していく。
最近の審査状況の一つの特色としまして、これは一例でございますが、文学、小説を議題にされます場合に、いわゆる純文学ということだけではなしに、いわゆる大衆小説家、そういう方でいい人がないかとか、あるいはまた、これはまあいまはそういうことになっておりませんが、漫画というものはどうだろうかと、こういうようなことが選考委員会の話題に上り出したと、こういうことがございます。
そうではなくして、かりにもしこれが純文学的な価値があるということになると、これは争いが起こってくる。たとえばこの前のチャタレー夫人の翻訳の問題のごとき、当然そういうことになるわけなんです。いわんや、一個の政治的な目的を持った行為に対しては、なかなか一方的にきめつけられるものではないのです。
これは、ただあなたがそれを言っておるわけではなく、いわゆる文化的レベルの高いものとか、国で当然やらなければならない純文学とか、そういうものに対して考える、こういうことだと思います。これは、文部省か何かにちゃんとした審議会か何か設けて、そこでもって内容を審査する、そして、一つずつパスをしたものに対しては免税をする、こういう処置は、理論の上の話でございますが、とれるかもわかりません。
なお、御指摘になりました純文学とかいろいろな問題、特に芸術保護というような面につきましては、可能な限り最大な措置を行なったつもりでございますが、その後も各界からの要望もございます。かかる問題は将来の問題として、バランスの問題もございますので慎重に検討をいたしたい、こう考えます。
その一例としましては、川端康成氏が、大衆文学を書くよりも純文学を書いたほうがもうかると言った。もうかるということはおかしいけれども、実は金をあてにしないで書くもののほうが金になることがたくさんあるということを言っているのですよ。そして純文学の作品は初め金のことを考えないで書くのです。そうしてそれが実は自然に売れてくる。十年たち、十五年たつと、川端さんのものなんかも非常に売れてくる場合がある。
芸術的価値とは営利を目的としない、それは先ほど池部さんから私の原稿料は千倍に該当するというお話がございましたが、私自身に関しましても、原稿料の評価は、ただいま申し上げたように純文学と大衆文学の場合非常に違いまして、さし絵のない小説の場合は、たとえばそれがかりに一枚千円といたしますと、やはり十分の一ぐらいの額に当たるわけでございます。
これは純文学として取り扱うか社会問題としてこれを取り扱うかということに分れ目があると私は思うのですが、この批評は私は端的にして要を得ていると思う。この「太陽の季節」の主題の登場人物の中に女子大英文科のグループというものが一応浮んできております。青年層から言えばやや知識階級に属する連中なんです。これらの者の性の状況をここに描写しているとも思われる。
それからもう一つの意味は、おそらく文学の言葉に純文学とか大衆文学とかいう言葉があつて、いわゆる大衆的といいますか、大衆的というと語弊があるかもしれませんが、享楽的なものではなくて、純芸術的な作品であるとか、そういう意味で、興業的な舞踊、オペラじやなくて、純粋に芸術的なものである、こういうふうに規定されておるんじやないか。これは私が想像するわけであります。
○安部委員 たいへん同僚委員の御質問によつて明らかになつたのでありますが、中島先生は文学の方の評論家と承つておるのでありますが、大体永井博士の人格とか、あるいは科学者としてそういうような研究をしたことが貢献したかどうかということを離れて、單に永井博士の著書というものは、純文学の見地から見てどういうふうにあるか。