2020-04-28 第201回国会 衆議院 予算委員会 第20号
今の状況下は、もう言うまでもなく、例えて言うならば、紀元前と紀元後をあらわすBCという言葉とACという言葉がございますが、私は今、ビフォーコロナ、アフターコロナという大きな、日本のみならず、世界の大きな転換点、区切りの時期に我々はいると。
今の状況下は、もう言うまでもなく、例えて言うならば、紀元前と紀元後をあらわすBCという言葉とACという言葉がございますが、私は今、ビフォーコロナ、アフターコロナという大きな、日本のみならず、世界の大きな転換点、区切りの時期に我々はいると。
○国務大臣(麻生太郎君) 昭和十五年、紀元は二千六百年というのが正式な表現ですけれども、あのときの平均寿命は四十三歳だそうですから、この辺ほとんど終わっておりますが、そういう時代だったんだと思いますね。少なくとも満州事変が支那事変に拡大し、少なくとも戦争というのにずっと遂行していくためには国家体制というものを極めて統制的なものにしていったというあの時代にでき上がったものは数多くあるんですが。
第十六代仁徳天皇、紀元三百十三年か何かだったね、あれは。ちょっと忘れちゃった。そういった時代の話と今の時代と比較してというのは、単純に比較できるかどうか知りませんけれども。 少なくとも、税金というものは、その国に住んでいるという方々にとりまして、その国に住んでいる以上やってもらわないかぬ。
じゃ、この皇祖皇宗とは何かと、「勅語衍義」を読むと、「天祖天照大御神ノ詔ヲ奉ジ、降臨セラレテヨリ」、「神武天皇ニ至リ」、「神武天皇ノ即位ヲ以テ國ノ紀元ト定ム」と記しているわけですけど、私はアマテラスオオミカミや神武天皇が日本の始まりというのが日本の正規の歴史だということは一切習ったことがございません。
現在、日中合弁の交通公社新紀元国際旅行社、JTBのものです。これで世界で四社が許可を受けているという状況にございます。 JTBの新紀元は、二〇一一年五月に許可を受けまして、同年七月から出国旅行業務の取扱いを開始をしています。同社は北京周辺を中心に業務を執り行っておりまして、相当な部分が日本向け出国旅行業務となっていると、このように承知をしています。
恐らく最初に導入したのは紀元一七年、ローマでアウグストゥスの後を継いだ二代皇帝のティベリウスが、小アジアの大地震の際に、その地域の復旧それから属州税の猶予ということで導入したわけであります。
それから、次の質問ですが、私は、日本というのは日出る国と言われている国、これは、紀元六百七年に聖徳太子が隋の皇帝の煬帝に送った国書に、御案内のとおり、日出るところの天子、書を日没するところの天子にいたす、つつがなきやと。
古い歴史はわからない部分もありますけれども、紀元一七年、ローマで、ちょうど三代皇帝のティベリウスの時代でありますけれども、西アジアの小都市で大地震が起きます。三つの都市が崩壊をいたします。そのときに、ティベリウスはローマの元老院に対して二つの提案、了解を求めます。 その一つが復興に係る公共事業、これはローマ帝国において行う。
いわゆる西暦よりまだ六百六十年前に神武天皇が即位された、ここを多分紀元としているんだと思います。
地球上の人口は、紀元前二五〇〇年に一億人になり、紀元一八〇〇年に十億人、最初の一億人から十億人になるのに何と四千三百年も必要でした。しかし、一九〇〇年に二十億人になり、十九世紀には人口が十億人増加するのに百年でした。
私が解釈するなりに申し述べますと、歴史をずらずらずらっと並べますけれども、紀元三世紀ごろまでは、中国あたりから倭と呼ばれる地域連合集団でありました。その後、六百四十五年に大化の改新があり、天皇が最高権力者ということになって国らしき形になります。七百一年に大宝律令ができて、文武天皇がそれを制定し、そして公地公民制の仕組みが導入をされます。
最近も、箸墓古墳の周辺の土器の放射性同位元素分析で、紀元二五〇年ごろ、すなわち邪馬台国の卑弥呼の墓の可能性があるということなどが議論されたりもしておりますが、こういう点ではやはり調査というものが大事なことだと思うんです。 ユネスコ世界遺産登録しようとしている百舌鳥・古市古墳群の中の津堂城山古墳について次に伺いますが、築造時期は、出土した円筒埴輪から大体四世紀の末ごろと見られるんですね。
ざっと見ますと、紀元前千年から紀元ゼロ年、このころは、今現在、二〇〇六年というのが右端に書いてありますが、それよりも気温は高かったということを示している図だと思います。その後、紀元前から大体一千年、中世期ぐらいまでは温度が低かった。しかし、その後、「温暖期」とそこに書いてありますが、中世温暖期と言われている時期が来て、その後また、「小氷河期」と書いてありますが、気温が下がった。
また、東京国立博物館において購入いたしましたこぶ牛文装飾皿につきましては、紀元一世紀のイランのパルティア王国時代のペルシャ美術の優品でございまして、部分的な鍍金がよく残っておる、またペルシャ文の銘文が記されてあるということから、五人の評価額の最高と最低を除いた平均額が三千五百万円ということでその決定をしたというふうに伺っておりまして、私どもとしては、いずれも適正に手続に従って行われたものというふうに
このときは高野紀元審議官も行っていますし、当然田中局長も行っています。総理と官房副長官なんでしょうか。どなたのことを現場の判断とおっしゃっているか、明言してください。 それから、続けてこの件について申し上げます。 その後、福田官房長官は、一種の非公式情報という注釈をつけて被害者の家族の方に知らせた方がよかったかなと思うと述べて、政府の対応に落ち度があったことを認めておられるということなんです。
その氷点という雑誌の前に、マスコミに対する圧力としてもう一点、「大紀元」という報道があるわけであります。 大紀元という雑誌がある。その大紀元大阪事務所というものが、今月の三月十日午後五時から十一日の深夜にかけて、日本大紀元時報社大阪発行事務所に何者かが侵入した、こういったことが書かれているわけであります。
○松原委員 この大紀元というところの情報を持っているパソコン三台が盗まれた、金品の被害はなかった、こういうふうに書かれているわけであります。 かつて、この大紀元は、日本で創刊し始めた五年前の三月十四日にも、そういった意味で、資料を物色している男、ファイルを保存していた引き出しが破壊されたということも報告をされているわけであります。
ただ、一番のテキストになる指針は、紀元二〇〇〇年の秋のアーミテージ報告です。
先生とほぼ同じ、先生たしか昭和十三年と思いますので、私の場合、昭和十五年、紀元は二千六百年という年に生まれておりますので、戦争中、私のうちは空襲で丸焼けになりましたし、いろんな意味で、あの博多の大空襲のときには猛烈な記憶がそこだけ鮮明に残っておりますので、いろんな意味で戦争はやっぱりえらい悲惨なことになるという実態は正直ありますので、そういった意味では、今の日本という国が、あれから六十年間の間に振り
ですから、紀元節とか、天皇誕生日を天長節とか、そういうふうにしていったわけですが、戦後、最初に国民の祝日を決めた一九四八年当時、当時の参議院文化委員会では、国民の祝日の選定基準を決めている中で、一つ、新憲法の精神にのっとること、二つ、国民全体につながりのあるものを選び、部分的なものは除くこと、三つ、世論を尊重すること、四つ、国際関係を慎重に考慮することなど、十項目の選定基準を立てました。
三年前、紀元二〇〇〇年に国連はミレニアム総会というのを開きまして、二十一世紀における国連像というものをかなり大胆に描きました。