2016-12-08 第192回国会 参議院 法務委員会 第13号
これ遡りますと、昭和四十年代、私が、六〇年代後半から確認・糾弾路線で解同が極めて暴力的に行政への圧力を加え続けたという時期があります。せんだって御紹介した八鹿高校事件というのは、直接行政ということではなく学校ですが、あれも、県あるいは教育委員会全部巻き込んで、圧力を掛ける中での起こった事件なんですよね。
これ遡りますと、昭和四十年代、私が、六〇年代後半から確認・糾弾路線で解同が極めて暴力的に行政への圧力を加え続けたという時期があります。せんだって御紹介した八鹿高校事件というのは、直接行政ということではなく学校ですが、あれも、県あるいは教育委員会全部巻き込んで、圧力を掛ける中での起こった事件なんですよね。
だったらば、これが差別じゃないかと、確認・糾弾路線まで行き着いた、あるいは八鹿高校事件にまで行き着いた確認・糾弾をてこにした圧力で迫られたら、国や地方公共団体だって不公正、乱脈な同和行政に至った歴史の痛苦の教訓、これが再びよみがえるということだってあり得るじゃないですか。
解同による差別糾弾路線は、一九六九年に大阪市で発生した矢田事件という暴行、監禁事件を始めとして、次々と行政機関あるいは学校、教育現場を巻き込んで路線に同調しない人々の人権を侵害をしてきました。