2017-11-29 第195回国会 衆議院 農林水産委員会 第2号
この要因としましては、二十七年産以降、過剰作付が全国的に解消しているわけでございますが、そういった米価上昇の局面の中で、生産者と実需者相互の情報のミスマッチ、あるいは、できるだけ高値で販売したい産地の御意向と、できるだけ低価格で調達したいという実需者の意向の食い違いが生じていることによるというふうに考えております。
この要因としましては、二十七年産以降、過剰作付が全国的に解消しているわけでございますが、そういった米価上昇の局面の中で、生産者と実需者相互の情報のミスマッチ、あるいは、できるだけ高値で販売したい産地の御意向と、できるだけ低価格で調達したいという実需者の意向の食い違いが生じていることによるというふうに考えております。
これに加えて、さらに、過剰米対策として政府が米価の下支えのために備蓄運営上必要のない米の買入れを行うことは、消費者の理解を得られないこと、米モデル事業の非参加者が米価上昇の最大のメリットを受けること等の問題があると考えております。 なお、米価の下落については、米モデル事業により需給引締め効果があるものの、依然として残る需給ギャップ等による影響が大きいものと考えております。
これに加えて、さらに、政府が米価の下支えのために備蓄運営上必要のない米の買入れを行うことは、消費者の理解が得られないこと、米モデル事業の非参加者が米価上昇の最大のメリットを受ける等の問題があると考えております。 次に、総合的な経営安定対策における農業共済制度への加入促進等についての質問をいただきました。
なお、政府が米価の下支えのため備蓄運営上必要のない米の買入れを行うこと、これについては消費者の理解あるいは今回の米モデル事業の非参加者が米価上昇の最大のメリットを受けるといったような問題がありまして、ここは十分な慎重な検討が必要だと考えております。
○内閣総理大臣(菅直人君) 今農水大臣の説明もありましたし、先ほど私も申し上げましたが、この備蓄運営上必要のない米の買上げということについて消費者の理解を得られることが難しいということ、また、米モデル事業の非参加者が米価上昇の最大のメリットを受けるといったようなこと等で問題があるということで、慎重な姿勢で現在臨んでいるということであります。
なお、政府が米価の下支えのために備蓄運営上必要のない米の買い入れを行うことは、消費者の理解を得にくいこと、米モデル事業の非参加者が米価上昇の最大のメリットを受けること等の問題があるとは考えております。備蓄運営のあり方については、二十三年度予算編成における検討課題と認識しているところであります。
なお、政府が米価の下支えのために備蓄運営上必要のない米の買い入れを行うことは、消費者の理解を得られないこと、米モデル事業の非参加者が米価上昇の最大のメリットを受けること等の幾つかの問題があると考えているところであります。 国民生活に対する認識についてお答えをいたします。
特に、この全農による十万トンの飼料への処理については、米価上昇に対する大きな期待がかかっておりました。なぜなら、備蓄米はいずれ市場に放出されることがあるのに対して、えさ処理をいたしますと、最終消費されてしまい、その後の需給、価格に影響を及ぼさないわけですから、えさ処理を十万トン全農が行うとお約束をなさったことは、市場に対する重要なメッセージになったと思われます。
先ほど手元に諮問の説明及び諮問案をいただいたわけですけれども、これを見ますと、諮問の中で、家計の伸び率と消費者米価の上昇率を比較して今回の消費者米価上昇率の上限をはじき出しておられます。この比較の基準のとり方は、四十三年を基準年としているわけです。四十三年を基準にとるというやり方は、五十年、五十一年に続いてことしで三年目になっていると思います。
しかし、逆に物価対策としましては、いわば現在の消費者米価上昇が構造的なものであるからといって、個々の品目のそのときどきの値上がりについてこれは構造的なものだから神経質になる必要はないということでは実は物価対策というのはうまくまいらないのでございまして、一般的な構造的な問題であると同時に、具体的な個々の物資の値上がりについてはいわばきめこまかく対応していくということが必要だろうというふうに考えておるのでございます
とすれば、そういう生活環境の変化を反映するためには、可処分所得一ぱいまでの消費者米価上昇を認めるべきではなくて、その間弾性値を求めて、家計が変化といいますか、近代化した分だけは家計米価の上昇分から落としていくべきではないかという意見、これは米価審議会で先般出ました答申案の中にございます。
しかし、ただ、たくさんになってくると、その一つ一つに対する米価上昇影響というふうに割り切られることは、実際問題としては不可能であろうというふうに考えられるわけです。