1950-11-16 第8回国会 参議院 厚生・文部・地方行政連合委員会 閉会後第1号
立川にその頃軍需工場があつて、立川の軍需工場を潰してあすこに三十軒家を建てるから、どうかあすこへ来てくれと、それから穴森がやはり神社の傍で、これは整備になつて蒲田の二業地と合併したので、あすこへ三十八軒か行きました。それから新宿とか吉原にも十何軒行きました。方々の整備したところへ向けて、空家になつておるところへ向けて、皆相当のその当時の單価で買つて、そうして入つたような始末でありまして……。
立川にその頃軍需工場があつて、立川の軍需工場を潰してあすこに三十軒家を建てるから、どうかあすこへ来てくれと、それから穴森がやはり神社の傍で、これは整備になつて蒲田の二業地と合併したので、あすこへ三十八軒か行きました。それから新宿とか吉原にも十何軒行きました。方々の整備したところへ向けて、空家になつておるところへ向けて、皆相当のその当時の單価で買つて、そうして入つたような始末でありまして……。
○証人(池田益太郎君) それで穴森に参りまして、穴森で三月の二十七日かに、海軍の飛行場の拡張だというので、あすこを又一週間以内に出まして、まあこういうような原因で武蔵新田へ行きまして、武蔵新田へ来たにつきましても、私共戰争最中でしたが、二十年の六月に話がありまして、とにかく蒲田警察署に行くと、それは困ると、現在産業戰士がまだ二万人から残つておる。