2017-02-24 第193回国会 衆議院 財務金融委員会 第6号
これを、昭和四十六年から、当時の福田赳夫大蔵大臣の時代に、一トン当たり一万二千六百円にしています。これを、トン当たり八千円まで、当分の間税率といって、二・五倍とり続けたのを下げたのは、民主党政権のときだと思うんですけれども、正しいですか、主計局長。
これを、昭和四十六年から、当時の福田赳夫大蔵大臣の時代に、一トン当たり一万二千六百円にしています。これを、トン当たり八千円まで、当分の間税率といって、二・五倍とり続けたのを下げたのは、民主党政権のときだと思うんですけれども、正しいですか、主計局長。
これは、外交というのは、かつて福田赳夫総理が表現をしておられたんですが、これは水の上を泳ぐアヒルのようなものだと。上はすうっと行っているんですけれども、下で水かきでかいているんですね、水かきの部分はなかなか見えないわけでございますが。我々は、大統領選挙が行われている際には、当然、この選挙戦に影響を与える、介入するという考えは毛頭ないと、そこで注意深く対応していたわけでございます。
昭和四十六年十一月五日、佐藤栄作内閣、発言者は福田赳夫外務大臣であります。内容は日米協定であります、本会議。 それで、きょう、お孫さんもこの席にいらっしゃるのかな、委員でいらっしゃると思いますけれども、福田外務大臣が日米協定の趣旨説明について誤ったものを本会議で読んだ、こういう例がありますが、私もこの年、まだ一歳でございまして、もう非常に歴史的な事実であります。
このことは、今も福田赳夫外務大臣のお話がございました、先例が全くないわけではないのですが、委員会においては憲政史上初めてということであります。ほかの事例もよく見まして、対応はやっていかねばならないと思っております。
このときに、時の大蔵大臣の福田赳夫先生は、公共事業の範囲内で、場合によっては建設国債も発行できたにもかかわらず、税収の落ち込みに対する措置なんだから、主観的にこれは特例公債なんだということで単年度の特例公債を発行された。これも非常に厳格な態度で、立派だというふうにも思います。
当時、野党の社会党の木村禧八郎議員は、政治の体質が放漫財政をもたらすような体質なんですよ、ここで深刻に反省しなければ、今後日本の財政は大変なことになりますよと述べ、当時の福田赳夫大蔵大臣と激しく論戦しました。
これは外務省のホームページから引いてきましたけれども、日中平和友好条約交渉時の、一九七八年十月二十五日の福田赳夫総理との首脳会談の発言です。「われわれの世代では知恵が足りなくて解決できないかもしれないが、次の世代は、われわれよりももっと知恵があり、この問題を解決できるだろう。この問題は大局から見ることが必要だ。」と話していました。
その中国のパイプライン建設の融資を決めた当時の輸銀総裁の保田さんだったと聞いておりますが、福田康夫元総理と保田元輸銀総裁は、福田赳夫総理のときの首相秘書官同士で仲がよろしかったんだそうでありますね。
それで、当時は福田総理、赳夫さんの時代だったか、そうじゃないですか、そのときの狂乱物価というのが福田赳夫さんが名前を付けられたという、こういうようなことでございまして。
この特例というのは、昭和四十六年に重量税が創設されてから、わずかに三年後、昭和四十九年に、当時の、福田康夫さんのお父様である福田赳夫先生が大蔵大臣の時代に決めたわけでありますね。そのときの国会答弁は何度も読みました。
今おっしゃいました、福田赳夫先生が最初の選挙、昭和二十四年のときに、農業と並んで中小企業の振興ということを掲げられたということを伺いまして、本当に、きょうは答弁をするに当たり、うれしい気持ちでおります。 中小企業の定義。一般に、中小企業というのは、これまで日本の経済産業省の定義は、製造業で従業員三百人以下でございました。
そのうちの二人がおじい様の福田赳夫先生、そしてお父様の福田康夫先生ということで、私も福田康夫総理のときに大臣を務めさせていただきましたが、大臣の呼び込み、福田達夫当時の総理秘書官からお電話をいただいた、明確に記憶に残っているところであります。
○富田委員長 松島副大臣、福田赳夫元総理の初出馬は昭和二十六年というふうに達夫先生はおっしゃっております。訂正しておいてください。(松島副大臣「二十六年とおっしゃった、ごめんなさい」と呼ぶ)
○安倍内閣総理大臣 私の演説の中で、農家の方々と一緒にやろうという意思が希薄ではないかという御批判がございましたが、私の父が仕えた福田赳夫先生は、農林水産大臣になったときに、誰よりも農民を愛する、こうおっしゃったわけでありますが、私も全く思いは同じでありまして、そして、その中で、まさに農業の分野を、若い皆さんが自分たちの情熱や努力で新しい地平線を切り開いていくことができる分野にしなければならない、こう
福田赳夫総理はいかなる権限を用いてされたと思いますか。「行政権は、内閣に属する。」という憲法の規定によってやった。超法律的ではあっても、超法規的ではなかった。 そこで、「行政権は、内閣に属する。」という権限は、安倍総理、今、内閣の首班として持っておられる。もう一つ持っておられる。自衛隊の最高指揮監督権を有しておる。
そのときもまた福田赳夫内閣ですが、見て見ぬふりをしたから、今我々は、地球上で一番、現実的に核ミサイルに囲まれた国として現在おるわけですね。 そこで、今からでも遅くはない。核抑止力をいかに確保するかについて、総理の御答弁をお伺いしたい。
これは、釈放された服役囚がその後世界各地でまたテロ行為を行った、テロの輸出ということで批判をされまして、このとき、福田政権ですね、福田赳夫さんは、一人の生命は地球より重いということで、超法規的措置というふうな形でこのことを決断された。 ただ、そのときの福田一法務大臣でしたか、その直後に引責辞任された、抗議の辞任であったというふうに思いますけれども。
同じく福田赳夫政権ですよ。福田さんは、さっきの日航機のハイジャック事件のときに、一人の生命は地球より重しと言って、犯人の要求に屈服した。この拉致事件のときも、恐らく、どのレベルまで知っていたかはわかりませんけれども、北朝鮮に対して反撃を全くしなかった。その結果、直後には横田めぐみちゃんが拉致されて、数百人の犠牲者が北朝鮮に恐らく拉致をされたというふうな感じなんですね。
福田赳夫内閣です。そこからずっと我が国は国是としてやってきたんです。ですから、国際的な交渉の力を持ちつつ、国際ルールの枠組みに入っていかなくてはならない。 その意味において、我が国は、まず日米の関係を正常化、完全に復活をさせた。その中で、私たちは、TPPをやると言いながら、これから日・EUの取り組みも入ってきます。そして、我々がTPPに接近することによって、中国、韓国が日本に近づいてきました。
私は、議連として人口問題議員懇談会というところの事務総長をさせていただいておりますが、これは会長が福田康夫さんでございますけれども、これは、人口問題という視点でいろいろな途上国の支援をどういうふうにしていくのか、アフリカなどは人口が爆発的に増えて、子供たちは死ぬために生まれてくるというような現状がある中で、どうやってそういう方々を支援していくのかということを中心に、これは福田赳夫さんの時代から続いてきた
かつて、福田赳夫内閣のときに、対外経済担当大臣として牛場信彦さんという方が就任されました。それで、各国を歩いて、こういう海外のインフラ整備等々についていろいろ話をされました。あれはすごくよかったなと思うんですよ。
たまたま「昭和財政史」というのを調べてみますと、昭和二十三年の第二回の国会で、当時の福田赳夫政府委員の答弁にこんなことがあります。
一九七七年、昭和五十二年、日本では福田赳夫内閣でした。日本の世相でいえば、巨人軍の王貞治選手がホームランの世界記録を打ち立てて、そしてちまたではピンクレディーが物すごく人気を誇っておりました。 その一九七七年の十一月十四日、横田滋さんが四十五歳の誕生日をお迎えになりました。
いろいろ調べてみると、当時、田中角栄総理に任命されて大蔵大臣に就任されたのが福田赳夫先生であります。そのときの就任の条件は、日本列島改造論を捨てることを条件にしたというふうに言われております。編成途中だった七四年度予算の公共事業費などを中心に大幅に圧縮されて、今お話がありましたように、公定歩合も九%まで引き上げられた。また、当時、円高も許容して、輸入による供給拡大を実現した。
しかしながら、本当の話は、これは福田赳夫総理のときから、日本のアニメ、漫画芸術、こういうものは非常に世界の中でレベルが高い、こういうものの活動の中心点をつくらなきゃいけないと、こういうことになりまして、多くの漫画家、コピーライター等々が運動を起こしまして、非常に精密な検討をして計画したものでございます。