1993-04-22 第126回国会 衆議院 科学技術委員会 第7号
戦前は確かに皇国史観があって、南北朝の問題で北畠親房が神童正統記を書いた、これは我々も小学校のころに教えられたことだからよくわかっている。戦後においては、そういうものの歴史的価値はあるにしても、むしろ土塁であるとか、くるわであるとか、あるいは馬入れであるとか、あるいは平城であるとか、そういうものが大事であるならば、なぜ一体それに対してもう少しまともな指導ができなかったのか。
戦前は確かに皇国史観があって、南北朝の問題で北畠親房が神童正統記を書いた、これは我々も小学校のころに教えられたことだからよくわかっている。戦後においては、そういうものの歴史的価値はあるにしても、むしろ土塁であるとか、くるわであるとか、あるいは馬入れであるとか、あるいは平城であるとか、そういうものが大事であるならば、なぜ一体それに対してもう少しまともな指導ができなかったのか。
城そのものは、戦国時代の末、常陸を領しておりました佐竹氏が関ケ原の戦いの後に、秋田に国がえされることに伴いまして廃城となっておるわけでございますが、この間、南北朝の動乱期には、南朝方につきました小田氏が北畠親房を迎えたために、関東における南朝方の中心となったわけでございまして、この城で北畠親房が神童正統記などを執筆したということが著名であるわけでございます。
こういうところに中央から、文化財だと言ったところで、北畠親房が南北朝のときに神童正統記を書いたところなんだと幾ら言ってみたところで何もないじゃないですか、これは。それはきのうやきょう僕が言っているのじゃない。十数年前からその話はしている。それに何らの手をつけないというのは一体どういうことか。
それから小田城を中心とした南北朝の歴史、北畠親房がそこへ入って神童正統記を書いて、途中でそこを追い出されて大池の方へ行って、それから関城町の関城へ行った。そこで神童正統記を仕上げたという話もあるし、その周辺には大宝という城もある、城址があります。こういうのが一連の南北朝の歴史なんです。 それから、そのほかに鎌倉時代の歴史として、宝篋山というところにはいろいろな大きなお寺もあります。
それは、つくばの小田というところに南北朝時代に北畠親房という人が神童正統記を書いた小田城というのがある。これは昭和十年に重要文化財に指定をされ、戦後、二十五年に文化財保護法によって指定をされた。そして六十年には、合併前の筑波町が、教育委員会がこれに対して管理規定というか管理方針を決めた。
○吉澤説明員 史跡小田城につきましては、先生御指摘のとおり、昭和十年に史跡に指定されておりまして、これは南北朝時代の北畠親房が神童正統記を書いたということで、南朝の東北への支配ということで、非常に重要な遺跡ということで昭和十年に指定されておりまして、昭和二十五年の文化財保護法で引き継がれて史跡になっているというものでございます。
僕らもよく学校のころに北畠親房の神童正統記というのは試験に出されたから、あこがれてよく知っています。ああここかと行ってみれば原っぱだ。それで文化財だ文化財だ、何を言っているんだ。 昨年は、井上文部大臣は、やはり私有財産を押さえることについては慎重でなければならぬとちゃんと御答弁がされている。これは鳩山文部大臣も同じだと思うのですが、どうですか、文部大臣。
こういう書き出しで、日本書紀、万葉集、そうした古典について書きまして、あるいは神童正統記とか、そのおもな作品の「内容を熟読玩味されますときには真に我々の精神をみがき、感奮興起せしめるもの、そして目の前にある幾つもの困難なる問題を一刀両断に批判し得る所のものは正に幕末先哲の遺文であろうと思ひます。」そして藤田東湖とか、橋本景岳とか、いろいろなことが書いてあります。