2021-04-07 第204回国会 衆議院 文部科学委員会 第9号
さっき言いました文化財と文化、その鷹鳥屋神社に奉納するお神楽そのものも百年の伝統がある、神社そのものは七百年の伝統がある、そういうものなんですけれども、今現在、佐伯市の地域の指定文化財には登録されております。
さっき言いました文化財と文化、その鷹鳥屋神社に奉納するお神楽そのものも百年の伝統がある、神社そのものは七百年の伝統がある、そういうものなんですけれども、今現在、佐伯市の地域の指定文化財には登録されております。
その際に、やはり国際社会で、靖国神社そのものに対する認識等、さまざまな理解の度合いがあるというのも現実であります。そもそも靖国神社とはどういう神社なのか、そのことからしっかり説明をしていかなければいけない、こういった場合もあります。
これは、靖国神社そのものの社務所が作成したリーフレット「やすくに大百科」、それの外国人向けの翻訳版なんですね。英語、中国語、そして韓国語に訳されて、海外の来訪者も受け取れるものであります。 パネルにしてまいりましたが、この中に重大な記述があります。
まさに、この主張は、靖国神社そのものであります。ですから、そうやって、みずからの参拝は性格が違うと言っても通用しない。 では、総理に伺いますが、総理御自身は、あの戦争が、自存自衛、そして自由と平等な世界を達成するための正義の戦争だというふうに考えていらっしゃるのか、それとも、そういう主張は間違っていると考えていらっしゃるのか、イエスかノーかでお答えいただきたいと思います。
私は、昔の時代にあったような早馬でも準備して、何か連絡があったら上から走ってくるとか下からまた上へ連絡するとかしなければ、この神社そのものが孤立状態にあるんです。土をかぶって、土砂が入っているわけですね。これに対して、取り除けばいいようなものですけれども、これは文化庁の御指導をいただかなきゃ、それは砂一つさわっちゃだめだということで怒られちゃいます。
○谷博之君 現状の話ということでそういうことかなと思いますが、しかし、これは遊就館ということについては、これもいろんな、国会でもまた取り上げられておりますけれども、靖国神社そのものもそうでしょうし、そこにある遊就館についても、アメリカの例えば有識者なども随分その存在を気に掛けておられる方もおられるということはもう御承知のとおりだと思ってます。
靖国については、これは靖国神社が元々生まれた、さっきも議論がありましたけれども、淵源をたどると、やっぱり国家神道が淵源でありますから、それは政治的に利用されるという宿命を靖国神社そのものが持っているんじゃなかろうかと。だから、小泉さんも使ったんでしょう、政治的に、と僕は思います。
しかし、靖国神社そのものの性格が戦前と戦中、占領中、現在と変わってきたことは事実でございまして、そうしますと、その公式参拝なるものも、戦時中までに考えておったような靖国神社に対する政府責任者の参拝と現時点においては変わっていることも事実だと思います。それはそれなりにあなたは考えられた。
なぜならば、靖国神社そのものが宗教法人なんです。 そこで、こんなことを繰り返すならば、国会の合意でもいいし、国民合意のもとに国民英雄墓地というようなものを全然宗教と関係なくつくって、そして堂々とこれに公式参拝できるようにしたらいいじゃないですか。なぜそういうことを考えられないのです。こんなことをやられておったら、英霊だって迷惑だと私は思いますよ。こんなことで平和祈願ができますか。
○福田説明員 先ほども申し上げましたが、靖国神社にどなたが合祀されているかということは、すぐれて神社そのものが決めていかれる話であると私どもは考えております。 名前をちょっと失念いたしましたが、中村さんでございましょうか、今、戦後、元台湾兵として補償を求めるかどうか、それは全く別の話として私ども把握しております。
何も追悼施設というのが靖国神社の中に別個に存在してあるわけじゃないんで、靖国神社そのものなんですよ。ただ、そのものであるものを特にあなた方は何か追悼施設というものが別個に存在するというふうに世間が考えているというふうに論理をもてあそんでいるわけだ。しかし、それはそうじゃない。あくまでも国民一般が靖国神社というその宗教施設の中にそういう面があることを認めておるかどうか、その点も怪しいものだ。
○安倍国務大臣 今回の私の訪中、日中外相会談を中心として一連の要人との会談ですが、おっしゃるように呉学謙外相とは長時間やりまして、靖国神社そのものにつきましても時間をかけて日本の立場を説明いたしましたし、また中国側からの説明もありました。これは具体的にあったわけでありますが、鄧小平氏を初めとしてその他の要人との間では、具体的なそうした指摘というものはなかったように思います。
今度は靖国神社が、有機的一部分ではなくて、靖国神社そのものが舞台になっておる。そうでしょう、鳥居の向こうの方でやったわけじゃないでしょう。あの舞台そのものでやったわけでしょう。しかもそれが私的参拝ではなくて公的参拝である。
ただ、そこに戦没者が合祀をされておるということでありまして、そういう神社そのものに対する宗教的な援助というような考え方、あるいは神社そのものに対するところの意義というようなことを極力排除をしまして戦没者に対して追悼をするという気持ち、また靖国神社自身に戦没者が合祀をされておるという事実、そこでこの追悼の気持ちをあらわすために参拝をしたということでございまして、神社そのものに対して宗教的な援助をするというようなこととは
しかし遺憾ながら、憲法の政教分離との兼ね合いにおいて、戦没者の慰霊祭そのものに、靖国神社そのものに公的なかかわり合いを持つことが許されないという憲法解釈が一つの有権解釈として長く影響力を持ってきたという点に一つの大きな今日の問題もあったと今にして思うわけであります。
でありますが、たまたま靖国神社という神社に祭られておる、そのことが何か靖国神社の公式参拝という形になっていく、こういうように理解をされておられるのですが、私は国民の大部分の方がこの靖国神社の追悼、亡くなられた戦没者の皆さんの冥福を祈り、そして今日の平和があるのは皆さんの大きな犠牲であった、これからわれわれは平和国家をつくっていくんだ、そういうことをお互いが心の中に刻み込まれながら参拝するのであって、靖国神社そのものをということよりも
こういうように、神社そのものが挑戦的にどんどんやっているというようなところを見ると、私はさびしい感じがしますね。お国のためになくなられたみたまたちのお祭りの晩に、政党問の対立を浮き彫りするような放送が参拝者の全員に放送されておるのです。これはお国のためになくなられたみたまに対してほんとうに申しわけないことだと私は思うのです。
境内の特に拝殿から離れた一部分を使う、それも神社そのものを対象としてでなくそういう広場があること、そういうことを対象として使うことは、これは私は神社を利用したことにはならない、かように考えております。
したがいまして、宗教法人自体についてかれこれ申すよりも、靖国神社そのものはそういう時代的な背景を背負っておるということにおきまして、私どもはやはり社会的な観点からこれを考える必要があるんではないかというように思っております。
今日御承知のような地方財政逼迫の折柄、このいちずに靖国神社に祭られたい、祭ってもらいたいという遺族の一筋の頼み、願いの心をかなえてあげることが、せめて国民としての悲惨な敗戦の跡始末としての一つの心やりなのでありますけれども、しかし、考えてみれば、神社そのものとしてはそうは考えながらも、実は東京都に監督されておる一宗教法人であるというようなところに、いろいろな矛盾が出るのであります。
これが宗教法人というような建前をとらなければならなかった事情、並びに靖国神社そのものの、一般の神社、いわゆる宗教との違いというような点について、お考えをお開かせ願いたい。