2019-02-25 第198回国会 衆議院 予算委員会 第13号
○茂木国務大臣 長期間で見てみますと、日本は何回か景気の回復期というのを経験しているわけでありまして、ちょうどグラフが出てくるぐらいの一九五四年ですけれども、これが、好景気、歴史的にもほとんどないということで神武景気と言われたんですね。
○茂木国務大臣 長期間で見てみますと、日本は何回か景気の回復期というのを経験しているわけでありまして、ちょうどグラフが出てくるぐらいの一九五四年ですけれども、これが、好景気、歴史的にもほとんどないということで神武景気と言われたんですね。
かつて岩戸景気、神武景気という時代があったんですね。あのときはみんな少しずつ懐が暖かくなったんです。今はそうじゃないでしょう。逆に、政府統計でも明らかでしょう。景気が回復してよくなっているんなら、消費がふえにゃおかしいんですよ、どう考えたって。ところが、消費は減っているじゃありませんか。
東京じゅうが工事現場となったような形で、その大きな経済発展を神武景気と称したのが、今から四十年ほど前ですね。それから続きまして、昭和四十五年に大阪の万博が開かれました。これがそのときまた、大阪だけではなくて日本全国が大変な経済発展を遂げたわけでございまして、これを岩戸景気と称しました。
それから、テレビ放送あるいはカラーテレビが始まってどのような経済効果があったかということでございますが、これはちょうどテレビの普及した時期というのは、神武景気でございますとかあるいは岩戸景気、「もはや戦後ではない」と言われた時期以降の普及でございまして、経済全体がいわば右肩上がりの状況にあったということでございます。
この間の日本の経済といいますものは、実態から遊離された、そういうバブルの面を大変多く含んだまさにバブル経済、バブル景気といいますか、神武景気とか岩戸景気とかありますが、どういう命名をされるのかわかりませんが、私はこれは結果だから言えることかもしれませんが、やはり政策的にどうも若干後手後手を踏んだんではないかなという感じがしておるわけでございます。
昭和三十二年は御存じのとおり神武景気でした。昭和三十六年は岩戸景気でした。そして、まさに日本は高度経済成長して人命はもうどうでもいいんだ。そして、まさにどんどん公害を垂れ流していってこの経済成長を遂げていった。これはまさに国家、社会が生み出した罪悪ですよ。患者というのはその犠牲者なんです。
当時の産業優先、企業優先の姿勢というのは、当時を振り返ってみますと、昭和三十二年ごろはちょうど神武景気と言われておったし、三十六年ごろが岩戸景気と言って、政府も今や戦後ではないと言って産業優先政策をずっととってきた。
さて、我が国経済は景気拡大が四十カ月に及び、神武景気やイザナギ景気に迫ろうとしております。しかし一方で、昨今円相場の下落、株価の急落、さらには日米経済構造問題の協議など、新たな問題の解決も迫られており、今後の財政経済運営に当たってはこれらの状況を十分踏まえ、時宜に応じて機動的かつ弾力的に執行願いたいのであります。
御承知のように神武景気の三十一カ月を上回り、イザナギ景気の五十七カ月、岩戸景気の四十二カ月に続くところの戦後三番目の長さとなり、今のままでいけば少なくとも岩戸景気を上回ることは確実である。 それから、経常収支の黒字幅は、これは縮小しておりまして、平成元年度が六百十億ドルの黒字でありますけれども、平成二年度は大体五百六十億ドルの黒字というふうに見込まれております。
六十三年度も何か経済学者に言わせると、経済学者の中には神武景気を上回るんじゃないかなんと大げさなことを言う人もおりますけれども、でございますから、消費経済が非常に盛んになります。
率直に言いまして、雇用保険が、いわゆる神武景気という昭和三十年代のああいうときから、非常に積立金も余裕のあるような状況も続いてまいりました。
ただ私、これから財政制度審議会等でいろいろ議論いただく問題だと思うんでございますが、私は一九四〇年代後半、壊滅的なあの廃墟の中で日本の国が、経済活動として政府がやったことと言えば、復興金融金庫とか、その程度でございますが、それで五〇年代、前進の時代とでも申しましょうか、神武景気だ岩戸景気だというようなものに支えられて六〇年代へ突入した。
それから、やっぱり五〇年代は朝鮮動乱が一つの発火点になりまして日本の工業が再び復活し、あるいは神武景気とか岩戸景気とか、そういう時代をくぐった時代であって、そして一九六〇年代になって、いわゆる二ドル三十五セントから一ドル七十五セントの間の二ドル原油というものに支えられて高度経済成長政策が打ち立てられてきた。
○国務大臣(竹下登君) 先ほども少し申し上げましたが、私は公債政策というものは、戦後、言ってみれば、新しい経済社会に対応する時代というのが一九四〇年代であって、そして五〇年代は、結局、例に出すことすらはばかりますが、いわゆる朝鮮戦争、そうしたものの特需にある程度刺激されながら、神武景気とか岩戸景気とかいう時代を過ぎ去って、一九六〇年代に入ってきた。
したがって、その後昭和三十九年のオリンピック後におきます、俗に当時神武景気とか岩戸景気とか言われた後でありますが、いわば戦後最高の不況と言われたときに、これは佐藤内閣、福田大蔵大臣の当時でありましたが、初めて建設国債の発行に踏み切った。
これは三木内閣の当時から日本の経済が御案内のとおりずっと急成長しまして、高度成長もし、あるいは神武景気だとか、高天原景気だとか、三年も五年も続いて、どんどんどんどん伸びて、これは一%やれば前年度対比でもって五%も七%もふえた時代もあったかもわからない。
政府見通しよりも三ポイント以上下なんでございますが、この五・三%という名目成長率は昭和三十三年、つまり神武景気と岩戸景気の間に挟まれました例の不況の昭和三十三年の四・八%、それから例の財政デフレと言われました昭和二十九年の四%に次ぐ低さなんでございます。
戦後の混乱期から後、戦時色を払拭するということ、また高度成長、岩戸景気とか神武景気とかそういう時代を迎えまして非常に消費が伸びてまいりまして、一方で所得も伸びてまいりまして、その反面で所得税なりほかの税収の伸びも大きかったものでございますから、消費税につきましては課税範囲の縮小とか免税点の引き下げとか税率の引き下げが行われてきたことは事実でございます。
相当回復してきていることは事実でございますが、まだまだ神武景気だとかなんとか言われるような状況までには行っていないということは先生も御理解いただけると思うのです。
じゃないでしょうか、よその会社へ就職できないので、教員志望者がたくさん出てきた、たくさんの志望者の中から精選したので、やっぱり質のいい者がだんだん出てきた、教師というものがそういう景気、不景気によって左右されるという状況は、やっぱりまずいんじゃないでしょうかと言われましたが、まあ現実には教員の志望倍数が非常にふえている、ふえている中から優秀な者を選べる、こういう立場になっていますが、今度逆にまた景気が神武景気