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10件の議事録が該当しました。

該当会議一覧(1会議3発言まで表示)

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1966-06-23 第51回国会 参議院 文教委員会 第24号

で、推古朝といいますのは、聖徳太子が出、冠位十二階が行なわれ、十七条の憲法がつくられるというようにめざましい発展を遂げた時代でございますから、日本に初めて天皇があらわれるという大変化は、この推古朝から二十一回辛酉の年をさかのぼった千二戸六十年前でなければならないという考えのもとに神武即位が決定せられ、推古朝に、おそらく聖徳太子あるいはその周辺の学者考えによって決定されたというように思われるわけであります

直木孝次郎

1965-03-04 第48回国会 衆議院 内閣委員会 第12号

それは明治政府がつくった根拠のない、文字も何もない時代を、ただ伝説によって歴史的根拠のない神武東征、それから二月十一日橿原宮即位したというような、また神武即位より二千五百何十年たっているなど、全く科学的根拠のない間違いである。そういう歴史学者の意見を聞かないで、単に法務大臣がその誤った明治政府の国史の解釈によって、これを国民が大多数支持しているから私も支持すると言うことは、これは重大問題です。

稻村隆一

1958-04-24 第28回国会 衆議院 本会議 第35号

すなわち、明治五年、政府歴史学者のほとんどが反対したるにもかかわらず、文字のない、暦のない神武時代を太陽暦によって明治五年より逆算し、二千五百何十年前の二月十一日が神武即位の日であり、日本建国の日であると無理に決定し、それ以来、事実として少年や青年の歴史教育の中に織り込まれ、そうして、人々の信念となったのであります。  

稻村隆一

1957-05-15 第26回国会 衆議院 本会議 第41号

(拍手)私は、三・一五、四・一六と聞くと、これは共産党弾圧を思い起すし、二・二六といえばファッショを思い出すし、二・一一といえば、天孫降臨神武即位、八紘一宇、超国家主義、それらを連想するのでありますが、私は、一九五七年、それも憲法十周年の該当する、月もあろうにその月に、二月十一日を建国記念日として復活することは、日本国衆議院の良識、さらにその常識を内外から疑われるに違いないと思うのであります。

高津正道

1957-05-08 第26回国会 衆議院 内閣委員会公聴会 第1号

一方同時に、中国の史書の体裁にならって、日本書紀の方は、当時として現代史部分がおもでございますが、これにそういう部分の史料をたくさん用いまして、そして編さん事業として完成されたので、日本書紀の方には、すべてのできごとにわたって年月日が入っておりまして、その一環として神武即位のことについても日付が記されているわけであります。こういうように一般に文献学者考えておるわけであります。

井上光貞

1957-05-08 第26回国会 衆議院 内閣委員会公聴会 第1号

ほとんど同じような民族風土の近いところの韓国において、すでに四千何百年も前に国の紀元というものができているのですから、そのつい隣の日本に六、七千年も前から人類が住んでおって、そうして建国したのは、あなた方のおっしゃるような、われわれの言う二千六百十何年と大きな違いのある時代に建国したものではなくして、やはり二千六百十幾年ということが、最も妥当なもので、またいろいろ深く研究し、考えてくると、やはり神武即位

小川半次

1957-05-07 第26回国会 衆議院 内閣委員会 第37号

ここでは神武即位の年を辛酉春正月と書いておりますが、これはつまり辛酉革命という迷信からきておるわけです。これははっきりしている。日本書紀の著者は、この緯書のことが頭に入っておるわけです。そして天地運数の上にて革命辛酉の年にあると信じておったわけです。この緯書によりますと、天地の異変というものは一三二二年に必ずあるとしてあるわけですね。

稻村隆一

1956-03-06 第24回国会 衆議院 内閣委員会 第19号

今日では神武即位がやはり六百年くらいはずれておるだろうということは、みな言うておるところであります。それゆえに今から三千六百年前に大和橿原宮即位をあげられたといったことは、即位はあげられたには相違ないけれども、きちっとその日その時であるとは実はだれも思っておらないのです。それは一  つの伝説としてさように見ておるのであります。

清瀬一郎

1951-02-06 第10回国会 参議院 外務委員会 第3号

歴史上から申しましても、神代のことはなかなかこれはつまびらかになつておりませんが、併しその当時から大和植民地として母国との間にいろいろな交渉があつたことは明らかになつておりまするが、有史時代なつて、神武即位から推古天皇の二十四年に至るまでは殆んど欠史時代で、歴史の上に、文献の上に余り現われておりません。

昇直隆

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