1974-04-02 第72回国会 参議院 内閣委員会 第11号
彼が摂政になって九年目のときですか、神武紀元をつくり上げたときも、周易を研究した上、変革の時代に直面している、武力革命が行なわれるであろうという予感におののきながら、六十年の二十一回転した千二百六十年前に、西暦六〇一年よりさかのぼった千二百六十年前に神武即位の日を決定した。
彼が摂政になって九年目のときですか、神武紀元をつくり上げたときも、周易を研究した上、変革の時代に直面している、武力革命が行なわれるであろうという予感におののきながら、六十年の二十一回転した千二百六十年前に、西暦六〇一年よりさかのぼった千二百六十年前に神武即位の日を決定した。
(発言する者多し)世間には、また、一部の学者の中には、これは軍国主義につながる暗い思い出のまつわる紀元節の復活ではないかとか、あるいは神武即位伝承や、二月十一日には科学的根拠がないから無意味だとかいうことを、ちょうちょうされる向きもないわけではありません。
で、推古朝といいますのは、聖徳太子が出、冠位十二階が行なわれ、十七条の憲法がつくられるというようにめざましい発展を遂げた時代でございますから、日本に初めて天皇があらわれるという大変化は、この推古朝から二十一回辛酉の年をさかのぼった千二戸六十年前でなければならないという考えのもとに神武即位が決定せられ、推古朝に、おそらく聖徳太子あるいはその周辺の学者の考えによって決定されたというように思われるわけであります
○参考人(直木孝次郎君) 初めのほうの御質問でございますが、つまり明治以前において神武即位を祝った史実があるかどうかという御質問でございますが、そう私もその問題について特に専門に研究したことはございませんが、おそらくそういうことは明治以前にはなかったと考えます。
それは明治政府がつくった根拠のない、文字も何もない時代を、ただ伝説によって歴史的根拠のない神武東征、それから二月十一日橿原宮に即位したというような、また神武即位より二千五百何十年たっているなど、全く科学的根拠のない間違いである。そういう歴史学者の意見を聞かないで、単に法務大臣がその誤った明治政府の国史の解釈によって、これを国民が大多数支持しているから私も支持すると言うことは、これは重大問題です。
すなわち、明治五年、政府は歴史学者のほとんどが反対したるにもかかわらず、文字のない、暦のない神武時代を太陽暦によって明治五年より逆算し、二千五百何十年前の二月十一日が神武即位の日であり、日本建国の日であると無理に決定し、それ以来、事実として少年や青年の歴史教育の中に織り込まれ、そうして、人々の信念となったのであります。
(拍手)私は、三・一五、四・一六と聞くと、これは共産党弾圧を思い起すし、二・二六といえばファッショを思い出すし、二・一一といえば、天孫降臨、神武即位、八紘一宇、超国家主義、それらを連想するのでありますが、私は、一九五七年、それも憲法十周年の該当する、月もあろうにその月に、二月十一日を建国記念日として復活することは、日本国衆議院の良識、さらにその常識を内外から疑われるに違いないと思うのであります。
一方同時に、中国の史書の体裁にならって、日本書紀の方は、当時として現代史の部分がおもでございますが、これにそういう部分の史料をたくさん用いまして、そして編さん事業として完成されたので、日本書紀の方には、すべてのできごとにわたって年月日が入っておりまして、その一環として神武即位のことについても日付が記されているわけであります。こういうように一般に文献学者は考えておるわけであります。
ほとんど同じような民族風土の近いところの韓国において、すでに四千何百年も前に国の紀元というものができているのですから、そのつい隣の日本に六、七千年も前から人類が住んでおって、そうして建国したのは、あなた方のおっしゃるような、われわれの言う二千六百十何年と大きな違いのある時代に建国したものではなくして、やはり二千六百十幾年ということが、最も妥当なもので、またいろいろ深く研究し、考えてくると、やはり神武即位
ここでは神武即位の年を辛酉の春正月と書いておりますが、これはつまり辛酉革命という迷信からきておるわけです。これははっきりしている。日本書紀の著者は、この緯書のことが頭に入っておるわけです。そして天地の運数の上にて革命が辛酉の年にあると信じておったわけです。この緯書によりますと、天地の異変というものは一三二二年に必ずあるとしてあるわけですね。
古代文化的な遺産はたくさん持っておるが、神武即位などというようなものは、何らこれは誇り得べき何ものも持っておらない。こういう点に対してどういうお考えを持っておるのかお聞きしたいのです。
今日では神武即位がやはり六百年くらいはずれておるだろうということは、みな言うておるところであります。それゆえに今から三千六百年前に大和の橿原宮で即位をあげられたといったことは、即位はあげられたには相違ないけれども、きちっとその日その時であるとは実はだれも思っておらないのです。それは一 つの伝説としてさように見ておるのであります。
歴史上から申しましても、神代のことはなかなかこれはつまびらかになつておりませんが、併しその当時から大和の植民地として母国との間にいろいろな交渉があつたことは明らかになつておりまするが、有史時代になつて、神武即位から推古天皇の二十四年に至るまでは殆んど欠史時代で、歴史の上に、文献の上に余り現われておりません。