2021-04-07 第204回国会 参議院 決算委員会 第2号
限りある資源で、例えば石油ショックのように止められてしまうとか、そういうことがインフレの一番大きな原因で、しかもそれは良くないインフレですよ。であって、今はそういう状況ではないのでしっかりと財政出動をすべきだということを申し上げているわけです。 この後、小泉大臣に質問しますので、黒田総裁はこの辺りで。また今度財金で質問しますので、よろしくお願いします。どうぞ。
限りある資源で、例えば石油ショックのように止められてしまうとか、そういうことがインフレの一番大きな原因で、しかもそれは良くないインフレですよ。であって、今はそういう状況ではないのでしっかりと財政出動をすべきだということを申し上げているわけです。 この後、小泉大臣に質問しますので、黒田総裁はこの辺りで。また今度財金で質問しますので、よろしくお願いします。どうぞ。
第一次石油ショックの後に、当時の大蔵大臣になった福田元総理は、日本経済は全治三年という有名な言葉を残されました。お隣に座っている麻生副総理も、リーマン・ショックの後、同じ言葉を使われましたよね。 菅総理は、今のこの状況が元に戻るまで大体何年ぐらいかかる、そういうのをどう見ていらっしゃるんですか。
これはもう今から五十年前に遡りますけれども、第一次石油ショックが起きて、それまでは前年の物価にスライドさせて賃金を上げていた、しかし、第一次石油ショックの前が狂乱物価のときで、その狂乱物価の上昇分を第一次石油ショック後に賃上げで上乗せした。それによって、日本にはスタグフレーションという現象が起きてしまった。
ここもやはり潮目を読む社長が昔からずっといたわけであって、これ、やっぱり三十万トンタンカーを造ろうと思って九州行ったんですけれども、結局、石油ショックで受注が全く来ない。ところが、なぜかここの社長さんが、元の社長さんですね、七十メーターあればいい幅を八十メーターにしろと言って、全員反対するんだけど、いいからやれと、八十メーターの幅にする。さあ、それでタンカーの仕事が来ない。
エネ庁ができたのは昭和四十八年だと思いますけれども、石油ショック等あり、しっかりとエネルギーを確保していこう、そして電力を確保していこうという中でできたものだと思っております。そうした中で、今度はやはり自前のエネルギーを持たないと安全保障上大変だという中で、いろんな取組をしているわけであります。
つまり、天然ガスとか褐炭とか原油が、皆さんも御記憶の方もいらっしゃると思いますが、第一次石油ショック、第二次石油ショック、そして最近ではリーマン・ショックと、そういうイベントごとに化石燃料、特に石油価格とそれと連動する天然ガス価格は変動するわけですが、そこに空から隕石が降るように落ちてきている、これが何かというと、太陽光なんです。この勢いで下がってきているわけです、コストがですね。
これは一九七五年の第一次石油ショックを引き起こしたと言われるほどの本でございますけれども、引き続く一九八〇年代は、先進国、日本も含めまして高度成長が終わった時期で、コモディティー価格は全部下落をしました。それで、この本のことは忘れられていたわけです。
まだそういう経験はしておりませんが、随分前にオイルショック、石油ショックということがありました。
なお、対外的な理由で、例えば、原油価格が大幅に上がった、第一次石油ショック、第二次石油ショックとありましたね。そういう場合の対応として、第一次石油ショックの教訓から、第二次石油ショックのときに日銀も含めて各国の中央銀行がわかったことは、石油価格の大幅な上昇というのは、外的な一種のサプライショックというか輸入コスト上昇、それを一切物価上昇に反映させないように徹底的に引き締めるということは適切でない。
水力から石炭へ、石炭から石油へ、石油ショックを踏まえた脱石油の動きから原子力が主流となり、東日本大震災の件もございましたので、現在、再エネ、脱原発の流れが出てきたわけであります。そういう面では、共通する部分というのは、一つのエネルギーに依存することなく、やはりエネルギーミックスの組合せというのは大変重要ではないかということが共通面として言えるのではないかと思っています。
我が国にとって、経済連携の推進、これは道半ばであると、このように考えておりまして、かつてエネルギーの調達においても、石油は中東から幾らでも買えると、こういう油断がある意味一九七〇年代の石油ショック、まさに油断ちなんですよ、これにつながったと、油断が油断ちにつながったわけでありまして、手を緩めることなく、TPP、RCEP、そして日EU・EPAと、こういった経済連携進めてまいりたいと考えております。
まず、今回審議されている省エネ法ですけれども、これは一九七九年の石油ショックをきっかけに制定されたものであるということで、それまで、日本経済というのは高度経済成長ということと大量消費ということを言われていたわけですね。今後は省エネルギー、省エネを進めようという方向に転換することになったその法律であるというふうに解釈をしております。
その一方で、戦後、我が国は経済大国になる中で、本当にエネルギー問題で、石炭から石油、また石油ショックを経て原子力ということで、エネルギーミックス戦略というのが我が国の立地特性、また我が国の歩みにとって、また将来を合わせて、これは変えられない戦略なんだろうなということも考えているところであります。
まず、一九七二年、昭和四十七年、石油ショックの前年ですが、アフリカのガボン共和国のオクロ鉱床において天然原子炉が発見されたと聞いております。その概要と学術上の意義について文部科学省の見解をお聞かせください。
あんな命令、私は初めてですけど、当時の建設省の命令じゃなくて国家の命令だったんです、第一次石油ショックのときの。あのときパニックになった、日本国中がパニックになったときを私は覚えていますので、パニックにならない前に今から関係省庁が話し合って、全ての装置についてエネルギーをやっていこうというのが私の今の考え方でございます。
そして次に、安定成長期となります一九七〇年代初頭から八〇年代、これは実は石油ショックと円高ショックがございましたが、そのショックを受けた構造不況業種の構造転換対策、そして、産業全体としては、重厚長大から軽薄短小、あるいは知識集約型産業への構造転換を進めてまいりました。
(資料映写) いわゆるエネルギー安全保障を考えるとき、恐らく多くの人たちは、一九七三年のいわゆる石油ショック、オイルショックを思い浮かべるのではないかと思います。
つまり何が言いたいかというと、これもまたいろいろな議論はあるんですけれども、健全なインフレ、いいインフレと悪いインフレがありますから、石油ショックなんかは最高のある意味ではインフレですから、これは決して経済にいい話ではないので、いわゆる需要喚起、需要型の、物価が上がるということは、マイナスよりはいいというふうに思います。
振り返りますと、サンフランシスコ平和条約の締結と独立、米ソ冷戦、六〇年日米安保の改定、一九六四年の東京オリンピック、石油ショックと狂乱物価など、幾多の困難や歴史の転換期に遭遇をいたしました。 とりわけ、一九八九年ベルリンの壁の崩壊から始まった一九九一年ソビエト連邦の解体の衝撃は、戦後史を一変させる出来事でありました。
我が国は、かつて石油ショックでありますとか公害問題、深刻な公害問題を乗り越えて今の日本を形作ってまいりました。そのことは、同時に、世界に冠たる環境技術を獲得したという歴史でもあったと思います。 昨年十一月に発効いたしましたパリ協定の下、世界は脱炭素社会に向かって間違いなく動き出しています。
先ほど申し上げた、石油ショックの後、各国の政治家がどのように判断したのかという話が今につながってきているわけでありまして、そういった意味では、福島原発の事故を受けて、政治家、政治がどのように判断するかというのは極めて重要なタイミングだと私は思っておるものですから、そのことを申し上げて、私の質問を終わります。 ありがとうございました。