2013-03-21 第183回国会 参議院 内閣委員会 第3号
さらに、昨年十二月、作業の加速化を図るべく、中国北部河北省石家荘に装備を導入いたしまして廃棄を開始したところでございます。 三つ目はハルバ嶺における事業でありまして、委員御案内かと存じますけれども、ハルバ嶺、約三十万から四十万の遺棄化学兵器があると言われております。ここでは、昨年十一月、発掘回収を開始いたしました。
さらに、昨年十二月、作業の加速化を図るべく、中国北部河北省石家荘に装備を導入いたしまして廃棄を開始したところでございます。 三つ目はハルバ嶺における事業でありまして、委員御案内かと存じますけれども、ハルバ嶺、約三十万から四十万の遺棄化学兵器があると言われております。ここでは、昨年十一月、発掘回収を開始いたしました。
御指摘の事案は、株式会社フジタ社員の四名が平成二十二年九月に遺棄化学兵器処理事業関連工事の受注を目指して河北省石家荘に出張していた際に起こったものでございます。その際に、この四名が軍事管理区域と呼ばれている区域へ立入り撮影を行ったとして、中国の中国軍事施設保護法違反の容疑で中国当局に拘束され、いわゆる居住監視の下に置かれたという事案でございます。
九月二十日の月曜日、河北省の石家荘市でフジタ株式会社の四名の社員が軍事施設保護法などに違反した疑いで身柄の拘束をされました。大臣、フジタの社員は果たして人質だったんですか、どうですか、お答えください。
特に、時期がまず同じであったということ、そして日中関係において大きな影響を及ぼす両方の案件であったということは最低限政府として想定して行動していただくことが必要だったんではないかと思いますが、今回、フジタの関係者の方々が九月の二十日に中国に渡航されて、そして石家荘において中国の当局に拘束されてしまったわけでございますが、これはちょうどまさに沖縄那覇地検が船長の勾留延長を決めた翌日でございました。
また、こうした拘束事案が起きた石家荘の現場そのものは、九〇年代になりますが、化学兵器の回収事業を政府として行ってきた。これは、当時内閣府ではなく外務省で行ってきたと承知しておりますけれども、政府としてその石家荘の状況というものは化学兵器の回収事業等を行っていて十分承知していたのではないかと思います。
内閣府におきましては遺棄化学兵器処理事業を担当しておりまして、石家荘におきましても発掘回収をし、保管庫に遺棄化学兵器を保管をし、それから今後でございますけど、そこで廃棄を、処理を開始するための移動式の廃棄処理施設の調達を行ったところでございます。
ですから、今はもう既にこのフジタの社員との間に契約が切れておりますので、その契約の切れた社員が石家荘のところに行っていろいろ調べをしていたようでございますが、これは私どもの責任のあるところではないと思っております。 以上でございます。
○国務大臣(前原誠司君) 河北省の石家荘で起きました四名の邦人の、向こうの言い方ですと居住監視ということについて、どのような案件で居住監視がされているのかという説明が具体的にまだ中国側からございません。
御指摘の調査は、一九九一年六月に、吉林省の敦化地区を初めまして河北省石家荘地区の遺棄化学兵器の埋設あるいは発見現場を中国側関係者とともに視察し、意見交換を実施したものでございます。
○加藤(良)政府委員 現地調査、現地視察につきましては、第一回、これを九一年六月ハルバ嶺、石家荘。第二回現地視察、これを九二年六月南京。それから第一回の現地調査、これを九五年二−三月にかけて杭州、南京ほか。それから第二回の現地調査を九五年五−六月ハルバ嶺、梅河口。第三回の現地調査を九五年九月ハルピン、吉林、瀋陽。こういったところで行っております。
それから、どういうところにということでございますけれども、これは相当広い地域、東北地方を中心に広い地域に見つかっておるということでございまして、これまでのところ、九一年の六月に吉林省ハルバレイ、それから河北省石家荘、それから九二年六月には江蘇省の南京で視察を行いまして、さらに去る二月の末から今月の中旬にかけまして、浙江省杭州、安徽省ジョ州及び江蘇省南京に調査団を派遣いたしました。
それからもう一点、河北省の石家荘で中学校の校庭から兵器が発見をされて、学校の移転要求というようなことも起きておりましたけれども、この案件の処理はどうなっておりましたか。
そういう意味では、私見でありますけれども、中国の石家荘にある病院に大量の薬草の栽培園がありまして、この間それを実際に見てきました。私は医者として、今の近代医学というものは確かにそれなりの努力をしておりますけれども、なかなか解明できない問題がたくさんあるのです。
○川本委員 これは戦後、いま大臣もおっしゃいましたが、私は大同から太原経由石家荘回りで帰ったわけですが、全部歩いたのですよ。鉄道線路伝いに歩いたのですよ。ところが、引き揚げ者援護については戦後何の法律もなかったわけですね、引き揚げ者援護法というような法律はなかったわけですから。
太原のどこの部隊か私わかりませんが、私たちは石家荘に兵団司令部があって、そしてあの石太線の井けいまでが警備区域だったわけです。それだけに閻錫山軍との接触は井けいというあの場所を中心にしてやられておった。私自身もまた、太原におりましたから、閻錫山軍という存在、これもよく知っておりました。終戦になりまして、あの混乱期は日本の軍隊は八路軍が徹底的な敵としてやっておったわけであります。
ところが、その領事館で、これは天津、北京、石家荘、こういうような所は書類を持って来ない。その書類を持って来ないのも怠慢ですけれども、写しもとって来ないのですね。外交官ですから生命は保障されているはずなんです。これはあなたに言うことじゃありませんけれども、きょう外務省が来ていないから、まあ経過を申し上げる。この点は外務省に聞かなければならない。
ところが、金門、馬祖どころか、それから何百キロも奥地に入った桂林あるいは太原、石家荘などというようなところまで地図を持っていらっしゃるなどということが、一体どういうことを意味するのですか。こういう重要な問題について、ただ参考になるからというだけで済むものではありません。
そこで伺いますが、自衛隊は、中国の地名だけ象徴的に申し上げますが、大連、北京、天津、石家荘、太原、開封、漢口、南京、上海、桂林、そうして重慶の付近まで航空図をお作りになっている。満州は、ハルピン、ハバロフスク、チャムス、長春、コムソモリスク、ニコライエフスク、こういうところまで航空図をお作りになっておる。何のためにお作りになっておるのですか。
これは石家荘、天津、北京、こういう方面にまで山西の第一軍の残留工作というものが行われていた、こういう点を付加えておきます。 次に、湯浅さんが発表されなかつた点を自分は補足します。それはまず閻錫山の軍隊に残つて自分たちが大きな罪悪を犯した。これは自分たち自身で調べた統計によつても、大体自分たちは六百人くらいの人数でありました。しかしその人間が中国人を何人殺しているか、数千人の人間を殺しております。
自分の場合は四百十七名中でも、やはりさつき申し上げたようにこの山西の第一軍の残留工作、これが北京、天津、石家荘まで来ておつた。これは自分は特別の例に当てはまるわけです。ですからこれは自分のほうは特別なそういう方面から行つた人間だということを頭において聞いていただきたい。まず自分は終戦当時兵隊でした。
すなわち、昨年の十一月から旅順、大連、安東地区の残留者のうち約千五百名が承徳、石家荘、東京、長沙、重慶、貴陽、昆明、成都付近へ移動させられたことが、その留守家族に対する通信によつて判明いたしておるのでございます。その残留者の大部分は留用者でございます。一部は、戦犯、反革命のゆえをもつて残留せしめられている者及び国際結婚、孤児等がございます。
その後私どもが現地からの通信その他によって承知したところ、あるいはまた中共からの引揚者の証言によりまして入手した資料等によりますと、たとえば昨年現地からの通信によりますと、東北地区、すなわち満州地区に残留しておつた邦人が、昨年の十一月ないし十二月から、それぞれ重慶であると、か、承徳であるとか、あるいは南京であるとか、あるいは石家荘であるとか、そういう方面に分散移動を命ぜられておる。
そこで、そういう日本人の間のことを大体知つているという者から、たとえば石家荘には六百名おる、この六百名は何をしておるか、みんなが申し合せて帰国の準備をしておる、こういうことを私どもは同胞から聞いたのであります。
それからその翌年になりますが、二十三年八月ごろになりますと、石家荘がその前に落ちまして、石家荘に全部移りました。