1958-12-17 第31回国会 参議院 本会議 第3号
西川君は、明治三十一年新潟県北魚沼郡川口村に生まれ、新潟県立工業学校を卒業後、実業界に身を投じ、新潟鉄工所に入社、後、西川鉄工所、理研電線株式会社、理研木工所等の役員に就任し、ことに、当時の理化学研究所長大河内正敏博士の知遇を得て、農村工業の振興に大いに貢献せられたのであります。
西川君は、明治三十一年新潟県北魚沼郡川口村に生まれ、新潟県立工業学校を卒業後、実業界に身を投じ、新潟鉄工所に入社、後、西川鉄工所、理研電線株式会社、理研木工所等の役員に就任し、ことに、当時の理化学研究所長大河内正敏博士の知遇を得て、農村工業の振興に大いに貢献せられたのであります。
もちろん実習はやりますが、その四年の課程を終えて、今度は当時の県立工業学校に入ることになりますと、最初からやり直しなんです。さらに高等工業に進もうとしたら、その乙種工業学校の成規の課程を受けないと入学試験を受ける資格も認めない。だからそれをやり直して高等学校の試験を受けた経験もある。実にばかばかしい。専門学校ですから、この場合は学校教育もやるのです。
過般、京浜工業地帶の某県立工業学校の視察をいたしました節にも、誠にその荒廃振りはお話にならない状態でありまして、さながら、あんこの入らないお饅頭を見るような感じをさせられたのでございます。その実験実習に要する施設の大半町の有力者の寄附によつて賄われておりました。
○証人(亀澤富男君) 大正十四年二月十五日静岡県靜岡市太田町十二番地出生、爾後小学校、靜岡県立工業学校を卒業し、浜松高等工業学校中退、後、茨城県内原国民高等学校栄養部を出まして、満州移住協会、満州興務部の招聘によりまして、満州国勃利県公署開拓関係の衛生食品加工方面に従事、一九四五年開戰と共に召集を受けまして、満州第二六三九部隊野戰自動車兵器廠付に命ぜられましたが、本隊はおらず、東京城におきまして九月九日捕虜