2017-06-07 第193回国会 参議院 天皇の退位等に関する皇室典範特例法案特別委員会 第2号
沖縄県民の間には、四百五十年間続いた琉球王国が併合された明治政府の琉球処分と、その後の皇民化教育、沖縄戦と米軍統治などをもたらした天皇制下の政府に対して、戦前政府に対して複雑な思いが存在しています。特に昭和の時代、一九四五年、本土防衛の捨て石にされた沖縄戦では、天皇の名の下に県民を巻き込んだ激しい地上戦が行われ、住民の四人に一人、十二万人を超える沖縄県民が犠牲になりました。
沖縄県民の間には、四百五十年間続いた琉球王国が併合された明治政府の琉球処分と、その後の皇民化教育、沖縄戦と米軍統治などをもたらした天皇制下の政府に対して、戦前政府に対して複雑な思いが存在しています。特に昭和の時代、一九四五年、本土防衛の捨て石にされた沖縄戦では、天皇の名の下に県民を巻き込んだ激しい地上戦が行われ、住民の四人に一人、十二万人を超える沖縄県民が犠牲になりました。
一九四八年の排除・失効決議、今日、資料の、ページ打っていなくて申し訳ないんですが、二枚目に衆議院と参議院の排除・失効決議を載せておりますけれども、そこに至る経緯をつぶさに見てみると、そこにはやはり、この決議がなぜ出されたのかというところでは、三百万人を超える犠牲を出したあの戦争への反省、それからそこへ国民を向かわせた皇民化教育、忠君愛国の象徴として教育勅語が果たした役割、そういったものへの反省が明確
それらを徹底的にたたき直して天皇の民にしていく皇民化政策がとられ、皇民化政策は差別と同化によって裏打ちされたものであったがゆえに、沖縄戦の悲劇と戦後のアメリカ軍占領へとつながったことをお伝えしておきます。 くしくも、薩摩侵攻四百年、琉球処分から百三十年に当たる二〇〇九年の歴史的政権交代以降、沖縄では、歴代政権による構造的差別が県民の共通認識になっていることを申し上げて、意見表明を終わります。
と持ち上げておりますけれども、その旧憲法のもとで、沖縄の人々は方言や歌まで厳しく禁じられるなど、皇民化政策、こういうものが強要され、沖縄戦では多数の人々が犠牲になったわけであります。 大臣、こうした歴史を踏まえた教科書を求める沖縄県民の心情、その心情については御理解いただけますか。
皇民化教育や、あるいは、かつて、戦前、戦陣訓、教育勅語、こういうことで実は集団自決に追い込まれていった、せざるを得なかった、そういう悲惨な実態は、これは絶対に忘れてはいけない事実だと思うんです。そこから戦後の、平和をつくっていこう、そういう教育などが始まってきた原点でもあると思うんですよ、原点でもあると思うんです。
沖縄戦前夜の皇民化教育と、戦陣訓や軍の強制命令の存在、沖縄戦の実相の中で、歴史的な事実として証明され、語り継がれているのが、軍の命令による集団自決あるいは集団死と呼ばれるものであります。いわゆる軍命により追い詰められ、集団による自死に追いやられた事件であります。 私は、いわゆる集団自決の個々のケースについて、その存否の有無についての判断や見解を大臣に問うつもりはありません。
本省人の方は、植民地に生まれたわけですから国籍は日本人だったわけで、台湾総督府が一生懸命日本語教育というのをやりましたし、戦時中はいわゆる皇民化という運動ということをやりまして日本語をかなり普及させました。ですから、多くの人たちが、台湾にいる、いわゆる内地人ですね、日本人ですが、内地人とは違う日本人だというふうに思うようになっていた人が多いのではないかというふうに思われます。
そもそも、その創氏改名というのは、日本が朝鮮半島を植民地支配しやすいように皇民化政策のために行ったものであります。当時、創氏改名を拒んで自殺をした人もおります。日本の都合によって押し付けたものであることは歴史の事実でありまして、そのことを率直に謝罪をすべきだというふうに思います。
○吉川春子君 創氏改名は日本への皇民化政策、つまり天皇の臣民にするという政策であったわけですが、創氏、法律によって、法律による創氏によって朝鮮人全員に氏を付けて、名前の形式自体日本人式になったわけですけれども、これはどういう法律で強制されたのでしょうか。
小川ワシュカ、先ほどの皇民化によって日本名を付与されています。小川ワシュカ、ウィルタ、一九四三年の九月に国境で狙撃され戦死をされた。奥田プキィヨン、これはニブヒ族です、一九四五年八月十七日、戦争が終わった二日後、オタスの地で狙撃され戦死されている。 そして、戦犯としてソ連の軍事法廷にかけられて有罪判決を受け、大体多くの方がシベリアに連れていかれて、ラーゲリで強制労働に従事させられた。
ところが、一九二六年、昭和元年です、樺太庁は、ウィルタ、ニブヒなどの五つの少数民族をポロナイ河畔のオタスというところ、これはアイヌ語で砂地という意味だそうですが、オタスに強制移住させ、かつ囲い込みを行って、その場所で、土人教育所で皇民化教育を強制しました。 それで、太平洋戦争が開始される。
我が国は、植民地、いわゆる台湾、朝鮮、ミクロネシア、満州、あるいは占領地で、日の丸と君が代によって皇民化政策を強行しました。それによって、民族の文化も誇りも踏みにじってきました。その先例となったのが沖縄における皇民化政策であった。この歴史的な事実それから国体護持、つまり天皇制を守るために捨て石にされた沖縄戦の体験、これを忘れることができません。
私の少女時代の皇民化教育一辺倒の中でまさにこのことが実証されました。神国日本、万世一系、天皇の赤子、八紘一宇、大東亜共栄圏、聖戦完遂、まだまだありますが、これらの言葉はすべて上意下達、政府から国民へと一方的に流されていて、国民はこれを文字どおりオウム返しに受けとめていました。その当時はこれ以外の道はなく、選択の余地もなかったのです。
○小森委員 抽象的に一層啓発を推進するということは、啓発という言葉を使う以前の明治末年、大正、昭和の初年、ついに皇国皇民運動といって大政翼賛会に部落解放運動が組み込まれていくそのときも、全部そういうことは言うたんであります。だけれども、今言われておる啓発が重要だということについては、私はそれよりは少し前進をしておると思う。
再び皇民化教育のもとに――本当に教育の民主化というか教育基本法というものを大事にした、民主教育というものを基本にしたことをやらないといかないのじゃないか。今私が指摘をしたことについてどういうふうにお考えなのか、ひとつ。
ですから、日の丸問題にしましてもあるいは君が代問題にしても、それは国民それぞれのお立場、考え方があるでしょう、私は一般論まで否定しようと思いませんけれども、事戦前のような皇民化教育をし、国家権力で教育を統制をしていくというあり方あるいは教科書に対する著しい権力介入というのは絶対あってはならぬ、このことは私は強く申し上げておきたいと思います。
御案内のとおり、明治二十八年に我が国が日清戦争による日清講和条約を盾に台湾を領有して以来、五十年の長い間、我が国は台湾におきまして、日本は万邦無比の国である、日本は信義を重んずる武士道の国、正義の国である、天皇は神の子であり台湾人も一視同仁である、この一視同仁の聖慮に感銘して陛下の赤子たるべし、出征した後は国家が一切面倒を見てやるという皇民教育を実施し、あるいは現地語の使用を禁じて日本語を強制する、
それから、外国の、日本政府の植民地政策の皇民化運動の中で、日本の皇民になって徴兵制度までやった人が、戦争後帰っていったということもあるわけですから、そういう問題等は、私は政治的に考えて、金額の多寡、金の多い少ないというよりも、国としては、国家補償の援護としてやはり大局から考えて処理をしなければ、法の平等ということにならないのではないか。
この際、繰り返す必要もないと思いますが、台湾は明治二十八年から敗戦まで日本が領土として統治し、台湾住民に対して皇民化教育を行ってきたところでございます。そして、昭和十三年からは中国大陸の戦線に送るための台湾人軍夫の徴集が始まりました。
御案内のとおり、明治二十八年わが国が台湾を領有して以来五十年間、わが国は、日本は万邦無比である、一視同仁の聖慮に感銘し、陛下の赤子たるべしとしていわゆる皇民化政策が徹底をされ、皇民教育が行われ、現地語の使用は禁じられて日本語が強制される、名前も日本風に改められる。戦争が始まると国のため強制的に徴用され、台湾では昭和十七年から志願制、昭和十九年には徴兵制も施行されました。
このような皇民化教育の成果といたしまして、昭和十六年の文芸台湾というのに載りました周金波という人の「志願兵」というのが実はございます。 〔委員長退席、石橋(一)委員長代理着席〕 その一部分でありますが、「かしわ手を打つことは神々によって導かれ、神々に近づくことなんだ。……祭政一致は皇道政治の根源じゃないか。
同化政策は台湾統治の基本方針であったが、ここに至ってシャニムニに推進され、いみじくも皇民化運動とよばれた。」、このように述べているのですが、こうした教育の成果があって、実は台湾の人たちが日本のために本当に日本人と同じように、あるいはそれ以上に一生懸命戦争に協力するようになったといういきさつがあったということであります。
民族の誇りを無視して皇民化政策の名前のもとに彼らに何の関係もない元号を強要した事実を彼らはいやと言うほど知っておるのでございます。アジアの地域で使わせました教科書で、元号を教えたものの教科書を私はかつてシンガポールに参りましたときに教育関係者より見せられて、いまあなたの国では皇紀何年ですかと質問されて私は大変困ったことがございます。