2021-04-09 第204回国会 衆議院 安全保障委員会 第3号
手紙をありがとう しっかりした精神をもって 元気で居ることを聞いて 喜んで居ます 国家は多事であるが 私は丈夫で居るから安心してください 今度のような決心をしなければならない事情を早く話せばよかったけれど 先生とあまりにちがったことをいうことになるので ひかえて居ったことを ゆるしてくれ 敗因について一言いわしてくれ 我が国人が あまりに皇国を信じ過ぎて英米をあなどったことである 我
手紙をありがとう しっかりした精神をもって 元気で居ることを聞いて 喜んで居ます 国家は多事であるが 私は丈夫で居るから安心してください 今度のような決心をしなければならない事情を早く話せばよかったけれど 先生とあまりにちがったことをいうことになるので ひかえて居ったことを ゆるしてくれ 敗因について一言いわしてくれ 我が国人が あまりに皇国を信じ過ぎて英米をあなどったことである 我
○藤野委員 今のが旧少年法の提案理由説明で、つまり、感化教養によって優良な、戦前は絶対主義的天皇制ですから、いわば皇国臣民、優良な国民の育成を目指すという法案でありました。その後、日本が戦争に突入していく中で、この旧少年法というのが、いわゆる保護少年、犯罪少年らを戦争遂行に動員するものになっていきます。
今回の森友学園の問題は、何といいますか、日本で皇国史観に基づく、そういう教育をする小学校をつくりたい、それを応援したいという保守勢力の方々の強い、何といいますか、願いとか大きな力が働いてきたように思うわけであります。
その後に「父母に孝行をつくし、」など言って、ただ、そうした道徳目は、下線を引いているところですね、万一危急の大事があったならば、大儀に基づいて勇気を奮い一身を捧げて、皇国、皇室の国家のために尽くせと、ここに全部流れ込んでいるわけでございます。で、そこから更に三行目、「忠良な臣民である」、かようにすることは忠良な臣民である。
そのためには、これは改正教育令で書かれているんだと思いますが、「幼少ノ始ニ其脳髄ニ感覚セシメテ培養スル」、つまり幼少時から洗脳することが必要だとされてこの修身が位置付けられ、そしてそれが、国に殉ずる、「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ」というその教育勅語の文言で分かりますように、殉国思想や皇国史観が子供たちに幼少の頃から植え付けられていったという、これは紛れもない我が国の道徳教育の始まりの歴史であるわけですね
私が申し上げているのは……(宮本委員「いやいや、そう言っているじゃない」と呼ぶ)いやいや、さらに詳細に申し上げれば、徳目の点で、「夫婦相和シ」「朋友相信シ」、ただ、そのことも、宮本先生のその解釈でいったら、それはまさに皇国史観的な中での「夫婦相和シ」であったり「朋友相信シ」であったりということを言われましたが、私は、戦前でそういう言葉の使い方をされていたということがあったとしても、ただ、現在における
皇国史観的なことは認めるわけにいかない、超国家的な思想はよくないとはっきり答弁をいたしました。 続いて、二〇〇六年六月二日、第一次安倍内閣における教育基本法改悪に向かう教育基本法に関する特別委員会で、民主党のある議員が教育勅語の現代訳を配付して、「一体、歴史的に、教育勅語というものの中身で何が悪かったのか、」と当時の自民党政府に迫ったんです。
戦前十五年間、高等女学校で歴史を教えたわけでありますが、そのときには多分、皇国史観、そして天皇絶対主義という国体論に基づく歴史を、世界史の教師ですから余り日本史のことはそれほど強烈に教えなかったかも分かりませんが、少なくともそれを否定しないで歴史の教師を続けたと。
メーンテーマという欄にいろいろ書いていますが、皇国の興廃この一戦にありと。何のことか分かりませんけど、いろいろ書いています。要するに、もうむちゃくちゃですね。身中の賊たる外の泥棒と内のうそつきを一挙に断つということで、何のことかということですが、一日の遅滞、遅延であっても全額回収と。実際には遅滞ないのにDMが送られております。五百億円を前倒しで十月度に回収すると。
その前年に憂うべき教科書問題というのがあって、それに呼応するかのように、日本の教科書がちょっと平和と民主主義を強く出し過ぎている、もとに戻せというような形で出してきたんですけれども、例えば平泉学派、天皇中心主義を信奉するという皇国史観の東大朱光会というのがあるんですけれども、それに所属した村尾次郎氏、この方が主任調査官になっているんですよ、この当時。
我が国において、日の丸・君が代は、明治時代以降、第二次世界大戦終了までの間、皇国思想や軍国主義思想の精神的支柱として用いられてきたことがあることは否定し難い歴史的事実だと述べております。これは、事実認識においては当時の野中官房長官の答弁と同じだと思うんですね。
その教育の特徴は、皇国史観で貫かれた国史や忠君愛国を最高の道徳とする修身などを通して、子供を忠良なる臣民へと教化していくところにありました。 そのような教育によって典型的な愛国少年に育て上げられた私は、戦争が激しくなる中、やむにやまれぬ思いから、一九四三年、十七歳になったばかりで、中学在学中、みずから海軍少年飛行兵を志願し、内地や台湾で厳しく訓練を受けました。
これは、この同じ年の九月二十七日の日独伊三国軍事同盟締結を前にして、皇国の大東亜秩序建設のための生存圏の定義について決めております。この決定では、日本の生存圏、領土拡張と支配圏の範囲として次のように述べています。 資料の五ページの下の段をごらんください。それをパネルにすると、こういうことになります。
私は、もし仮に麻生大臣として世界に、日本の、靖国神社も行きますから、皇国史観というのは二千六百何十年というぐらいの年代があるんならば、日本の歴史を本当に尊重するならば、いかなる、韓国から、中国からあるいは近隣諸国から歴史問題が来ても受け取って返すぐらいの力を持ってほしいと思っておるんですけれどもね。そのためにも、私は今後、この歴史に残した問題を解決していこうと思っています。
想起してみていただけたらと思いますが、批判精神を抹殺した上で皇国史観を刷り込ませた戦前の歴史教育の在り方というものが我が国を侵略戦争に駆り立てたということを。科学的検証を得てその事実、実態に適合する定義を成す、歴史教育の道理ではないでしょうか。この帰結に思いが至らないことは正に歴史への冒涜と言えます。 歴史教育における思考停止は未来に対する責任放棄であり罪である、罪ですらある。
内鮮一体や皇国臣民化などのスローガンを掲げて我が民族の民族精神をなくそうとした。これにより、韓国語の使用を禁じる、日本語だけを使うようにして、我が歴史の教育も禁じた。またハングルで刊行された新聞も廃刊にさせる、韓国語や歴史に対する研究も禁止した。さらに日本帝国主義は我々の名前までも日本式に変える創氏改名を強要した、各地に日本の神社を建てて参拝するようにさせた云々書いていますね。
すなわち、昭和五年以後約十五年間にわたって、例の皇国史観のもとで、国家の体面あるいは血の純潔、そういうふうなある種のイデオロギーに裏打ちされた国民世論が巻き起こり、つくり上げられ、その結果、らい政策が続いてきた。戦後になって、新しい憲法が生まれ、そして昭和二十七年、五二年にWHOがそういう勧告を出した。にもかかわらず、この事務次官通達が出てきた。
ただ、非常に危惧をする、年のせいかもしれませんが、歴史学的に申し上げるんですけれども、皇国史観という史観がございまして、それは、いわゆるよく松尾芭蕉の不易流行というんでしょうかね、世の中いろいろ移り変わるものがあるけれども、移り変わらない本質的なものがあるんだということで、皇国史観の場合には、いわゆる天照大神が神勅によって三種の神器をお渡しになって、その方が続いていくということ。
特にその中でも、特別永住外国人と言われる方たちは、戦前から日本に在留しておりまして、戦後のサンフランシスコ平和条約によって日本国籍を離脱した平和条約国籍離脱者及びその子孫をこの特別永住外国人というわけでありますが、日韓併合以来、いわゆる皇国臣民化といいますか、こういった政策の中で創氏改名を言われたり、また日本人という国籍を剥奪されたり、こういうことをまさに政治的にされている、こういう人たちであるわけです
こういうふうな、いわゆる日本の歴史を四十年サイクルでとらえるという見方で見たときに、第二次大戦、いわゆるさきの大東亜戦争の終結の時点までの史観、歴史観、これは、一言で言えば皇国史観であったと思います。それから、その後の経済至上主義の流れの中で、思い切って言えば、東京裁判史観という史観が最も大きな位置を占めたんだろう、もちろんそれだけではありませんが。
それから、私どもは、同じようにそういう部分は感じているんですが、先ほど中曽根先生がおっしゃったような、私も、皇国史観、東京裁判史観にかわり得る史観というのは、体系立った考え方があるわけじゃありませんが、人間主義史観というようなもので、文化とか芸術とかそういう人間力というものを高める、そういう史観というものの形成が必要だなと考えておるのですが、そういう観点からいって、エネルギーが多少かかっても合意ができやすい
皇国の興廃この一戦にありといって始めたんですね。 ところが、その最初に戦端を開いた真珠湾攻撃のやり方、これは誠に今考えてみると不思議なことでありまして、実に見事にやった。見事にやったけれども、成功したのは、あそこにいた軍艦を練り上げた技術で沈めたということだけなんですね。燃料庫も壊していない、ホノルルのあの近い町でも停電も起こしていない。