2020-02-10 第201回国会 衆議院 予算委員会 第10号
○山尾委員 私は、本来は、即位礼正殿の儀も終わって、大嘗祭も終わって、もう去年の時点で、やはり国民は、新しい天皇陛下、そして皇后陛下のもとで、本当にお祝いの気持ちを持って、祝意を持って、落ちついてもう令和という時代を迎えているわけですので、もう本当は議論を始めて十分いい時期に来ていたと思うんですね、去年の時点でも。
○山尾委員 私は、本来は、即位礼正殿の儀も終わって、大嘗祭も終わって、もう去年の時点で、やはり国民は、新しい天皇陛下、そして皇后陛下のもとで、本当にお祝いの気持ちを持って、祝意を持って、落ちついてもう令和という時代を迎えているわけですので、もう本当は議論を始めて十分いい時期に来ていたと思うんですね、去年の時点でも。
それはどういうことかというと、やはり大変な日米交渉、私も、雅子皇后陛下が外務省の北米局にいらっしゃったちょうどそのころに、当時の通産省の米州課というところの末席みたいなことをやっていました。大変な厳しい交渉。だってアメリカは、我々は日米同盟でアメリカの核の傘のもとにあるわけですからね。関係ない、関係ないというか、きょうはそういう議論をするつもりはありませんが、大変厳しい交渉を強いられる。
平成から令和への御代がわりを迎え、今上陛下の御即位を心よりお祝い申し上げますとともに、上皇陛下、上皇后陛下に深い感謝の念を申し上げます。 憲政史上初めての譲位に日本じゅうが祝賀ムードに包まれました。NHKの世論調査によると、八〇%以上の方々が皇室に親しみを感じると回答したそうです。
五月一日に令和の時代を迎えまして、新天皇陛下そして新皇后陛下が即位されたこと、改めて私からも祝意を申し上げたいと思います。
今上陛下におかれては、御即位以来三十年を超える長きにわたって、まさに象徴として、国事行為のほか、被災地のお見舞い、国内各地はもとより戦地となった外国の御訪問など、一つ一つの御公務を心を込めてお務めになり、皇后陛下とともに国民に常に寄り添ってこられたことは大変有り難いことであります。
今上天皇陛下は平成の時代を、皇后陛下はもちろん、御一家とともに歩んでこられました。皇太子殿下も同様だと思います。皇室の行事ならこのような質問はいたしませんけれども、内閣が実質的に行う行事でありますから、お尋ねをいたします。
○長浜博行君 宮内庁も来られておられるようでありますけれども、いわゆる御公務の分担、陛下が上皇、皇后陛下が上皇后となられ、そして皇太子が天皇となられ、秋篠宮が皇嗣となられるこの状況の中での御公務の分担、あるいは時代に即した新しい公務、社会の変化に応じて公務に対する社会の要請の変化への対応、こういったことは、宮内庁、どのようにお考えになっておられるんでしょうか。
その上で、この平成という時代は、まさに天皇陛下が災害のときに被災者を実際に訪れ、そして被災者の人たちに寄り添う形で激励をされる、こうした天皇陛下や皇后陛下のお姿というものを通じて多くの国民がこうした天皇と国民との間の一体感というものをしっかりと私は持つようになった時代であったというふうに思いますし、また、海外で第二次世界大戦中の激戦地に赴き、こうした地域で実際に国のために戦い命を落とした、そうした人々
大きな自然災害が相次いだ平成の時代、被災地の現場には必ず、天皇、皇后両陛下のお姿がありましたということをお話をさせていただき、阪神・淡路大震災で全焼した神戸市長田の商店街では、皇后陛下が焼け跡に献花された水仙が、復興のシンボルとして、今なお地域の人々の記憶に刻まれていますということを御紹介させていただき、そして、東日本大震災の直後、仙台市の避難所を訪れた皇后陛下に、一人の女性が花束を手渡しました。
皇后陛下とともに歩まれた天皇としての旅を終えようとしているという感慨を拝聴し、私も胸に迫るものがございました。私たち国民も、陛下とともに壮大な旅をお供させていただいたように思います。被災地の御訪問、戦没者の御慰霊、障害のある方への御理解とお励まし、世界の日系人との御交流と、そのお務めは本当にありがたい限りでございました。 ここで外務省にお伺いします。
阪神・淡路大震災で全焼した神戸市長田の商店街では、皇后陛下が焼け跡に献花されたスイセンが、復興のシンボルとして今なお地域の人々の記憶に刻まれています。 商店街の皆さんは、復興への強い決意とともに、震災後すぐに仮設店舗で営業を再開。全国から集まった延べ二百万人を超えるボランティアも復興の大きな力となりました。
阪神・淡路大震災で全焼した神戸市長田の商店街では、皇后陛下が焼け跡に献花された水仙が、復興のシンボルとして、今なお、地域の人々の記憶に刻まれています。 商店街の皆さんは、復興への強い決意と共に、震災後すぐに仮設店舗で営業を再開。全国から集まった延べ二百万人を超えるボランティアも復興の大きな力となりました。かつて水仙が置かれた場所は今、公園に生まれ変わり、子どもたちの笑顔であふれています。
美智子皇后陛下がことしのお誕生日に際してこのようにお述べになっています、大変、御発言を引くのも恐縮なんですけれども。 約三十年にわたる、陛下の天皇としてのお仕事への献身も、あと半年ほどで一つの区切りを迎えます。これまで全身と全霊双方をもって務めに当たっていらっしゃいましたが、加齢とともに徐々に全身をもってという部分が果たせなくなることをお感じになり、政府と国民にそのお気持ちをお伝えになりました。
それで、大宮御所というんですかね、天皇が泊まる御所の隣には仙洞御所といって、引退した天皇陛下、皇后陛下も泊まれるようにもなるわけですね。こういって、私は、大きな国家プロジェクトとして天皇陛下というか皇室の京都移転というのも考えていく、それを議論することによって、私は東京一極集中のこのいびつな国の体制を変えていくための様々な知恵が出てくるんじゃないかと思います。
一つは、旧皇族といいますと、七十一年前に皇籍を離脱されていますけれども、あたかも七十一年前にはこんな感じで現在の今上陛下、皇后陛下と非常に近い親戚であったかのように受け取られている方も、国民の皆さん、大勢いらっしゃるんですが、全くそうではありませんで、もともと旧宮家というのは伏見宮家の系統ですけれども、室町時代に既にお血筋が分かれているわけで、今の今上陛下とは、男系で数えますと、男系が重要なわけですから
皇后陛下お誕生日に際しての宮内記者会への質問に対する文書での御回答です。 そこでは、憲法の議論に関わって、皇后陛下があきる野市の五日市を訪れたとき、郷土館で五日市憲法草案のことを見せていただいたことをしきりに思い出していると。
本法案では、退位後の天皇陛下の新たな称号として上皇、天皇陛下と常に御活動を共にされてこられた皇后陛下の称号として上皇后、敬称については陛下とすることとなっております。また、天皇陛下の退位後は、皇位継承、摂政、臨時代行就任、皇室会議議員就任などについては資格を有しないこととなっております。
○長浜博行君 次に、上皇陛下、上皇后陛下について伺います。 この法案の施行によって天皇陛下は退位され、退位後は上皇陛下とお呼びすることになっております。上皇という称号を検討するに当たっては、象徴や権威の二重性を回避する観点もあったと伺っておりますが、象徴や権威の二重性の問題は、上皇陛下が退位後にどのような御活動をされるかによるところも大きいと思います。
天皇皇后陛下となられた後も、国の内外を問わず、戦没者への慰霊、被爆による犠牲者への慰霊、あるいはまた、災害で被災された方々、施設に長く暮らす方々、元気に遊ぶ子供たちなどを訪ねられ、励ましていただき、平和を希求する象徴天皇としてのあるべき姿を広く国民にお示しいただいてまいりました。
また、退位後の天皇の后の称号については、旧皇室典範以降、未亡人との意味合いを帯びた称号として受けとめられるようになった皇太后ではなく、天皇陛下と常に御活動をともにされてきた皇后陛下にふさわしい称号となるように、上皇という新たな称号と一対になる称号として、上皇后とすることにしたものであります。
このほか、国内の関係では、皇后陛下のお誕生日の祝賀、園遊会といったようなところが公務遂行補助活動といったところの主なものでございます。
質問の中でいきなり天武天皇の話が出てきましたので、天武天皇がさいころにはまって、その後お亡くなりになったと、皇后陛下は非常に嘆き悲しまれて、それが千三百年の伝統になっておるというお話が大門先生の方からありまして、後で大門先生に質問しようかなと思っておりましたところ田村先生に替わられましたので、私は、千三百年の日本人の伝統の中にそういうものが国民の中に息づいておるものであるならば、どうして宮様のお名前
女川では、阿鼻叫喚の状況だったときから何回も入っておりますので、天皇皇后陛下も御来訪賜れた、あの駅から正面に初日の出が見えるという新興された商店街を見ますと、やはり感動で涙が出ますよ、ここまでは来たんだなと。 ただ、須田町長もまだ仮設に住んでいるんですよね。