2017-02-22 第193回国会 衆議院 予算委員会第一分科会 第1号
その当時の明治政府の中心にいたのは、草創の士、いわゆる下級武士、そして町人、各階層からの人々、そして岩倉具視を初めとして、下級公家と言われる方々が中心として明治政府を起こしました。そのときに何を一番最初に行ったのかというと、いわゆる上級公家、五摂家を廃止し、そして、天皇陛下が必ず横に置いておられた神祇官というのを廃止されました。
その当時の明治政府の中心にいたのは、草創の士、いわゆる下級武士、そして町人、各階層からの人々、そして岩倉具視を初めとして、下級公家と言われる方々が中心として明治政府を起こしました。そのときに何を一番最初に行ったのかというと、いわゆる上級公家、五摂家を廃止し、そして、天皇陛下が必ず横に置いておられた神祇官というのを廃止されました。
ですが、例えば豊作が続いて武家の倉にも、そして町人の倉にもお米がむちゃくちゃにあった場合、幾ら政府が米の供給量をちょっとぐらい減らしたって、びた一文動かないですよ。 金利も同じで、お金がじゃぶじゃぶにあったときに金利を引き上げるというのは、これは至難の業です、私の頭の中ではね。
そしてまた、そこにいろいろな産業もありましたし、もう一つ大事なことは、非常に教育水準が高かった、これはもうお侍から町人まで。そういった、ある意味では足腰がしっかりしていたから、だから、さあ、いざというときに、こうやって中央集権国家をつくろうということで私はできたというふうに思っております。
それは再確認ということで、実は竹島はそれ以前から、江戸時代から幕府公認で町人の方が、アワビ、アシカ、そういった捕獲とか漁とか、そういうものをしていた。ですから、その時点から日本の領有権というのは確立をしていたわけですけれども、おっしゃったとおり、一九五二年に李承晩ラインというのが一方的に引かれて、五四年に、いわば韓国の軍が駐留をする。その後、ヘリポートだ灯台だ接岸工事だ、さまざまなされた。
それは、先ほども申し上げましたけれども、十七世紀の半ばまでに日本の領有権というのは既に確立をしていて、当時、幕府が公認ということで、まさに、町人の方々がアワビの捕獲とか、いわゆる実効的な支配をもう既にしていたという経緯があるということを踏まえて対応しなきゃいけないというふうに思います。
○国務大臣(鴻池祥肇君) 先生のお地元の長崎の出島、一六二三年に有力町人二十五人が造り上げて、黒船が来るまで約二百年間続いたと。そういう発想も勉強の対象にいたしておるわけであります。 なかなか、この規制というものには歴史とかそれなりの理屈とかいうものが、正しくもあり正しくもないところで随分きちっとあるわけでございますけれども、なかなかこれが緩和することができない。
そこで、もう一つ申し上げますけれども、我々が、今までどおりのこの吉田ドクトリン、あるいは、かつて通産御出身の天谷さんが言っておられた町人国家という言葉がございます。それから、アメリカなんかのディスカッションでよく出てくるんですが、シビリアンステート、これは文民国家、要するに軍事は勘弁してちょうだいということでございましょう。こういう国柄であるとどういうことになるか。
それからいくと、日本は、例えば江戸時代の江戸の町人の生活というものを見ても結構自由で、そして法というものはあったんですね。確かに、明治以後日本には、それは失敗もあったと思いますけれども、その中で培われてきた法感覚、そのもとでの権利観というのは、僕はゼロだとは絶対に思わないんです。それを、人類の多年にわたる自由獲得の努力の中にぜひ入れてもらいたい。それは幾多の過去の試練に耐えて今日あるんだ。
○参考人(江橋崇君) その御趣旨は全く賛成でして、私はヨーロッパにおいてそうであるだけでなくして、日本でも例えば江戸時代に大坂で、大坂の町人たちの間で町人儒学というのが発生していますけれども、あの町人儒学の人たちは士農工商という身分制度で四番目に位置づけられていた商業を扱う自分たちであっても、泥棒まがいのものでなくて社会の公共のためにきちんと尽くせるんだ。
それは、物資の集散地、いわゆる蔵屋敷でございましたから、大きな庭をつくると町人はお取りつぶしに遭って、淀屋辰五郎なんて淀屋橋しか残っていないというような形になってしまいましたから。 私は、木を植えて公園をつくる場所と、木をうまく植えかえて公園をつくる場所とがあっていいんじゃないか。
大阪は物資の集積をした町でございましたから、町人が大きな庭をつくるとお取りつぶしに遭うというようなことで、蔵屋敷跡でございますので、公園面積は世界の大都市に比べて大阪が一番少ないのですが、名古屋の方にもそういう緑化政策がどんどん進むように、私どもも応援をいたしたいと思います。
あれより前には、社会、政治に参画したのは有力大名、将軍家、御家老初め上級武士に限定されておったわけでございますが、それが下級武士も町人も百姓も全部社会に参画していくようになった。これが明治維新の最大の功績だったろうと思うんです。 そういったことで、あの明治の困難な時期、日清、日露の戦争を切り抜けて、日本は植民地国家にならずにこうやって立派な国になってきた。
また、元禄時代の後期には、江戸に町人文化が花開きました。浮世絵、小説などが大量に印刷され、いきや通など町人独特の美意識や価値観が生まれ、それが現在の東京に受け継がれたと思っております。 したがって、新首都の建設には、単に国会や行政機関が移転するということだけで終わるものではありません。
ただ、私は期待をしたいのは、かつて性病というものがあって地球上に蔓延して、この性病の蔓延の仕方というのは、長崎に上陸したら一年たって北海道で出た、津軽藩の侍だとか町人に出たというぐらいもうとにかく早いんです、性病のうつり方は。しかし、それが現代の世の中においては完全に克服するだけの医療が施されている。なれば、エイズも必ず治るであろう。
大蔵省で大体四町人ぐらい検査マンがいらっしゃいます、本省、財務局を含めまして。日銀の方でも百五十人から二百人というふうに聞いております。同じような検査をしている。一番大事なこういう信用組合に対する検査というのが入っていないというのは非常に矛盾をしておると私は思うのですね。
かって、いろいろ申し上げるようでありますが、町人国家論なんというのが言われた時代がございます。名を捨てても実をとっていけばいいではないか、そういう理解も一部にはあったわけでありますが、今の世界、これからの日本を考えれば、そういう議論にくみすることは当然私はできないというふうに思いますが、そんなことも背景にする中で、お考えをお聞かせをいただきたいと思います。
私は何の権力も持っておりません大阪の一市民、一町人でございます。 一九四五年といいますと、昭和二十年の三月十三日の夜でございますけれども、この付近はアメリカの戦略空軍によります第一回目の空襲がございまして、大変な被害をこうむりました。十万人以上の人が死んだわけです。大阪の中心の船場の古い家々も由緒のある家々も多数焼失いたしまして、まさに一望千里とも言える焼け野原になったわけでございます。
それを百床当たりに置きかえますと、医師は十町人です。看護婦は三十七名、准看護婦四十三名、OT、PTが十七名です。そしてトラネハーベンにある、これは高齢者のための長期療養病棟のようですが、その場合は医師が六名。看護婦が二十四名と准看護婦が四十二名、合わせて六十六名ですね。そこにいらっしゃる患者さんが高齢者ということもあるのか、OT、PTは計二十四人です。
橋は、お殿様も通れば商人も町人もみんな通るわけです、古い例えで恐縮ですが。 それと同じように、こういうふうな知的成果物も、やっぱり一部の人が独占するのではなくて、いろいろな方々に利用される、そういうことを会計検査の中で加えてもらう必要があるんじゃないかと思うのですが、いかがでしょうか。
大多数の京都の町人は天皇さんが京都にお帰りになるのを百年以上もお待ちしている。」ということが書いてあったわけでございます。 それで、伝統、伝統ということをおっしゃる皆さんが、なぜこの千年の伝統のある京都の紫宸殿で儀式をやらないで皇居の方でやるということになったのか、このことについて京都の皆さんに一言でもお話をなさって了解をとったのかどうか。
それからもう一つの問題につきましては、確かにこれも都市の方に町から出かけていこうということで、関東町人会、関西町人会というふうなことから私の町でやっておることを話したり、あるいはまた、あるマスコミがちらっと流したようなことがおもしろいことをやっておるなということで年々ふえてまいりまして、大体大阪が主体でございましたが、昨年から関東、特に神奈川、東京そして横浜とか蕨市、そういうふうなところからことしは