2006-04-12 第164回国会 衆議院 財務金融委員会 第10号
一七六七年からは、田沼時代ですけれども、田沼意次によって改革がなされた。一七八七年からは、寛政の改革で松平定信が行った。一八三七年には、天保の改革ということで水野忠邦が行っていった。
一七六七年からは、田沼時代ですけれども、田沼意次によって改革がなされた。一七八七年からは、寛政の改革で松平定信が行った。一八三七年には、天保の改革ということで水野忠邦が行っていった。
あの田沼意次が活躍した時代だ、こういうふうに書かれております。本当にスウェーデンという国のすごさには驚かされるわけです。それで、アメリカは一九六七年に情報公開を法として定めたわけでございますが、その後一九七〇年代から八〇年代にかけましてはヨーロッパ先進諸国で、フランスやドイツを初めほとんどの国で情報公開の法令を制定してまいったわけでございます。
「この年正月、悪徳政治家として後世から評判のよくない田沼意次が、老中職に就任して権勢の頂点に立った。世にいわゆる田沼時代のはじまりである。偶然のこととはいいながら、いまを時めく田沼にとっては、安永の年号はまさにわが世の春をことほぐ天来の声と聞こえたにちがいない。」
江戸時代、御案内のとおり、今日なお悪名高い田沼意次という内閣総理に相当する者がいたわけでございます。この田沼意次のいわゆる金権政治の後を受けたのが松平楽翁公定信でございまして、松平楽翁公は福島県白河の藩主でございました。この松平楽翁公がいわゆる台閣に列する前にその名をとどろかせたのは、天明の大飢饉の際に、みずからの領地からは一人も餓死者を出さなかった。
この権力と金とが癒着した堕落というものが、柳澤や田沼意次の悪政以上に今日のこの退廃を生んでいるので、これから誘発するのは何かということを、この二、三年の間に思い知るときが必ず私は来ると思う。それは本当に血盟団や五・一五や二・二六よりももっと物すごい形において人民の力によって政治を奪還しなければならぬという非常に根強い運動の根源になると思うのです。
ちょうど幕末に田沼意次というのがおりまして、貨幣を改悪したことがあります。佐藤内閣もだんだんあぶなくなってきたので、貨幣を改悪して、そしてこの際銀や——百円札というのは、私はチップをやるのに非常にぐあいがいいのですね。おそらく大臣なんかはチップが多いからなんですが、わしらは百円札が一番いいと思う。大体百円札を一枚ずつ持っていて、チップをやるときにこうやって百円をやればいい。
たとえば競輪でも神戸はどう、京都はやめたとかいっても、盛大にそれをやって、市民のためのいろいろな公立の施設をつくっているところもあるわけですから、田沼意次時代のことばに、政治というものは、重箱をすりこ木で洗うがごとくせよということばがありますけれども、あまりすみずみまでほじくると、抜き差しならぬことになりますから、根本的な問題、方針だけを中央ではおきめになって、あとはその都市で自由に運用できるようになすったほうがいいんじゃないか