1992-12-07 第125回国会 参議院 文教委員会 第1号
○国務大臣(鳩山邦夫君) 次長と答弁が変わるわけではありませんが、先ほど映画の御質問が出まして、昔は映画というのは大変な文化の大中心の一つであったと思っておりまして、そのころに映画に関する著作権を権利構成していた著作権法は今の時代から見ると、例えば「田原坂」は里見浩太朗がやっているからいいんだといって見てくるんだけれども、その里見浩太朗さんには著作権も隣接権もないということで、今の時代になってみるとどうかなということを
○国務大臣(鳩山邦夫君) 次長と答弁が変わるわけではありませんが、先ほど映画の御質問が出まして、昔は映画というのは大変な文化の大中心の一つであったと思っておりまして、そのころに映画に関する著作権を権利構成していた著作権法は今の時代から見ると、例えば「田原坂」は里見浩太朗がやっているからいいんだといって見てくるんだけれども、その里見浩太朗さんには著作権も隣接権もないということで、今の時代になってみるとどうかなということを
三名市は西南戦役の激戦地として有名な田原坂のすぐ近くでありまして、高田君の祖父禎次郎氏もこの地でかつての十年戦役に参加されたと聞きます。眉目秀麗、紅顔の浩運君は、その戦跡地田原坂近郊をこよなき遊び場として多感な少年時代を過ごしたのでありました。君の万丈の人生は、ここにその原型を得たと言うべきでありましょう。 地元の玉名中学校では、君は抜群の秀才としての誉れを高くされました。
あの頑強な田原坂の戦いでは、どうしても落とせない。軍隊のほうが落とせないので、警視隊の中から百人余りの抜刀隊が組織されて、薩摩の陣営に切り込みました。逸見十郎太が切り込むときは秋のはやてかいなずまかといわれた、あの豪将すらもとうとう敗走したのであります。そのころ鹿児島で、「警視庁巡査と近衛兵なけりゃ、花のお江戸へおどり込む」、そういう歌がはやったそうです。百人余りですよ。
そうすると、一切の責任は田口さんの方に行くのですから、田口さんの方の仕事は表面的には簡単になっておるけれども、これは今度は越すに越されぬ田原坂が出てくるのですよ。だから政策としておやりになるならば、千百円を千五百円にしなければいかぬ。そうすると、田口さんの責任を解除しておっても金目が多くなりますから何とかやりくりがつく。
やや余談になつて恐縮でございますが、この島には、今申しましたように高千穂峡であるとか、あるいは逢阪山であるとか、あるいは霧島部落であるとか、田原坂、城山——どつちかといえば九州部隊が多かつた関係で、九州関係の地名が多いのでありますが、そこにおつた部隊が何も名前のない岡に山に坂にいろいろな名前をつけております。余談にわたつて失礼いたしました。 以上は私たちが見て参りました実情そのままであります。