2018-03-28 第196回国会 参議院 予算委員会 第15号
○有田芳生君 小泉訪朝が実現するまでに、その前の一年間、田中均アジア大洋州局長、当時、が一年間にわたって三十五回、北朝鮮側と交渉をした結果、小泉訪朝が実現したわけですけれども、総理もいらしたそのときの日朝平壌宣言、そしてさらには二〇一四年のストックホルム合意、それは今も総理は守る立場にいらっしゃいますか。
○有田芳生君 小泉訪朝が実現するまでに、その前の一年間、田中均アジア大洋州局長、当時、が一年間にわたって三十五回、北朝鮮側と交渉をした結果、小泉訪朝が実現したわけですけれども、総理もいらしたそのときの日朝平壌宣言、そしてさらには二〇一四年のストックホルム合意、それは今も総理は守る立場にいらっしゃいますか。
もしこれが早めにこの詳細、死亡日等が分かっていれば、その不自然さについて交渉の中で即座に追及できたのではないかと、これは当時の田中均アジア大洋州局長が国会でも謝罪をしているわけですが、こういうこと。
彼」、これは外務省の田中均アジア大洋州局長だと思いますが、「彼は被害者の皆さんの「日本に残って子供たちを待つ」との考えを覆してでも北朝鮮の要求通り北朝鮮に送り返すべきだと強く主張しました。私は職を賭してでも「日本に残すべきだ」と判断し、小泉総理の了解をとり五人の被害者は日本に留まりました。」こう書いておられます。
と同時に、今、水面下ということになりますと、これは二〇〇二年の九月十七日に小泉訪朝が実現をしますが、その前、八月の中旬に小泉首相は金正日総書記にあてて親書を出していて、それを受け取った北朝鮮側が前向きな、積極的な対応をしたことによって訪朝は実現したわけですけれども、そこに至る静かな環境の下での、松原大臣の言うバイでの北朝鮮と日本との交渉というのは、やはり一年間にわたって田中均アジア大洋州局長当時が中国
その言わば北朝鮮に対する非常に強い向かい風の中で、当時の日本外務省の田中均アジア大洋州局長が小泉総理の指示の下、非常に積極的な外交交渉を行われた。実は、私はこの日本政府の外交交渉の中にアメリカ政府とは対照的な北朝鮮に対するあめがあったというふうに考えております。
「田中均アジア大洋州局長が安倍副長官に「ご説明」と称して頻繁に接触し、拉致問題PTの即時廃止を申し入れました。「安倍先生のようなタカ派路線では絶対に何も解決しない」と言い、」安倍副長官が怒ったと書いてあるわけですが、これは、タカ派だとかそういう問題じゃないと思うのですね。