1964-03-19 第46回国会 参議院 商工委員会 第14号
○政府委員(森崎久壽君) 輸出を伸ばすか、輸入を押えるかというような御質問でございますが、われわれの今後の考え方は、まず輸出におきまして、現在日本の瓶子工業は、何と申し上げましても、米国に次ぐところの成績を上げておりますので、有望なる輸出産業といたしまして、昭和三十八年三億八千万ドルに甘んぜず、さらにこれを増強していきたいというふうに考えておるわけでございます。
○政府委員(森崎久壽君) 輸出を伸ばすか、輸入を押えるかというような御質問でございますが、われわれの今後の考え方は、まず輸出におきまして、現在日本の瓶子工業は、何と申し上げましても、米国に次ぐところの成績を上げておりますので、有望なる輸出産業といたしまして、昭和三十八年三億八千万ドルに甘んぜず、さらにこれを増強していきたいというふうに考えておるわけでございます。
○高津小委員 林屋晴三氏は本年二月中旬の十二、三日と思いますが、そのころにこれは永仁の瓶子とは全く違うケースである、すなわちにせものではないのだと、上下にわたって書いておられるのでありますが、べたぼめにいろいろな人の意見を持ってきてほめてあります。それから白木屋と大丸の両展覧会で配られた図録ですね、百円かする、あの図録には藤岡了一氏が、これも手放しでほめまくってあるんですよ。
いわんや、文化財保護委員会の付属機関にあります保存科学部で持っておりまする施設としては、磁気の磁場が一様の方向になっている瓶子のようなものならば比較的楽なのでありましょうが、いわゆる佐野乾山はさらのようなものが非常に多いようでございます。
○高津委員 永仁のつぼのような瓶子でないから、残留磁気の多少という点からも科学的審森が非常にむずかしい、それから出土品でないからきずが多いか少ないかというその年代の調査もむずかしい、もう一つはまた初代乾山の真正な基本になるべきものがないのだから、比べるのに非常に困るというような理由をおあげになりましたが、今度の新乾山に対して疑念を持つ側が、その他たくさんの間違いないという点をあげておるのでありますから
諮問する前にはそれぞれ専門技官あるいは専門家の意見を聞いて、そうしてそれに諮問したのでございますが、その際保留になりました理由は、永仁銘瓶子の干支が肩下がりのななめ書きに書いてあるのでございますが、田沢金吾委員から、縦書きとか横書きは多いが、ななめ書きになっているのはあまり見たことがないから、これはちょっとおかしいじゃないか。もっと調査してみるようにということで保留になったのでございます。
○清水政府委員 永仁銘古瀬戸瓶子、いわゆる永仁のつぼにつきまして、昨年来地元の一部から、これは鎌倉時代の作じゃないというような御意見が出されたのでございます。
○政府委員(清水康平君) 永仁銘瓶子、いわゆる永仁のつぼにつきまして、だいぶ物議をかもしましたこと、文化財保護委員会としてはまことに恐縮に存じている次第でございます。 御承知と思いますが、経緯を簡単に申し上げますと、昨年来、地元の研究家から、あれは鎌倉時代のものではないから、という要望がございました。
重要文化財に指定されておるもののうちでは、あからさまに申しますというと永仁銘古瀬戸瓶子のほかに他の二件が今審議中でございますので、あまり私専門家でないもので、内容をここで申し上げるのはどうかと思いますが、その二点が今慎重に専門審議会で審議中でございます。
○清水政府委員 文化財保護委員会といたしましては、正しい姿を発見する、これはだれが作ったんだということは二の次でございまして、特に永仁銘瓶子は、永仁二年に作ったという指定の陶磁は——御承知のごとくそれよりも実は新しい正和の銘のあるものが昭和十二年に指定してございます、それよりも古い永仁二年の作ということに意味がありまして、すなわち永仁のつぼはわが国最古の銘文のある瓶子として、わが国陶磁史上貴重な資料
○清水政府委員 問題が今三つあったように思うのでございますが、しかしその前にちょっと申し上げたいと思うのですが、ただいまいわゆる永仁のつぼが深田氏に移ってとか、転々と田辺七六氏に移っていったとかいうお話がございましたが、これは瓶子でございますので、大体二つが普通なのでございまして、十八年に愛知県の志段味村で出土発見されたものが新聞に載りまして、それから二十一年に窯跡調査報告会で永仁銘瓶子が二つ出てきたわけでございます
○清水政府委員 このたびの永仁銘古瀬戸瓶子を中心とする調査にあたりましては、形の整ったもの全部九十一点、破片を百六十何点集めました。出土地の明らかなもの、出土月日の明らかなもの、もちろんその中にはいわゆる新しいと思われるものを全部入れまして比較検討いたしたわけでございます。先ほど申し上げました通り、永仁銘古瀬戸瓶子につきましては一つの方向で進んでおります。
それから陶磁辞典には、鎌倉時代の作品で永仁銘瓶子というのが出ているくらい、一般その方面の人が、これは鎌倉のものに間違いないというふうに思っておったことは事実のようでございます。 以上、要点だけ申し上げた次第でございます。
○木下友敬君 そこで、その永仁二年の銘のある瓶子が発見されて、重要文化財の委員会で、それが問題になったのは、いつであって、どういういきさつで文化財に指定しようかどうかといういきさつになったのか。あるいは骨董屋さんが持ってきて見せたのか、あるいは加藤氏自身が何らかの手で運動して、文化財保護委員会の目にとまるようなことをしたのか。その辺を一つ詳しく話して下さい。
いわゆる永仁の壷といっておりますが、これは壷ではなく瓶子でございまして、永仁の銘があります古瀬戸瓶子というのが正しいと申しますか、私ども言っております名前でございます。この瓶子は、去る昭和三十四年の六月に文化財保護委員会におきまして、重要文化財に指定いたしたのでございます。