2018-02-09 第196回国会 衆議院 予算委員会 第9号
例えば、明治五年の琉球藩設置から明治十二年の沖縄県設置に至るいわゆる沖縄処分、さきの大戦において、一般住民の方、何と四人に一人が死亡するという筆舌に尽くしがたい被害、その後も、本土が高度経済成長を謳歌している間、二十七年にわたる米軍による占領といった苦しい歴史を歩んでまいりました。
例えば、明治五年の琉球藩設置から明治十二年の沖縄県設置に至るいわゆる沖縄処分、さきの大戦において、一般住民の方、何と四人に一人が死亡するという筆舌に尽くしがたい被害、その後も、本土が高度経済成長を謳歌している間、二十七年にわたる米軍による占領といった苦しい歴史を歩んでまいりました。
ジョン万次郎が上陸したとか、何かそんなことしかなくて、これは、大臣、もっとしっかり、戦後の苦難の道もありますけれども、本土復帰後の苦難の道もありますけれども、やはり、明治、今言われた琉球藩設置、琉球処分、そのあたりからの検証もしっかりしていくということがまさに沖縄に寄り添うことだと思いますし、国内だけじゃないんですよ。
沖縄は、明治五年の琉球藩設置から明治十二年の沖縄県設置に至るいわゆる琉球処分以降、議員御指摘のとおり、標準語の励行のため用いられた方言札などの、独自性が抑圧されることもありました。
しかし、我が国はどういう態度かというと、これまでは、政府の公式の答弁は、皆さんのところにお配りしておりますように、平成十八年十一月十日の第一次安倍内閣の閣議決定で、沖縄はいつから日本の一部かという質問に対して、沖縄については、いつから日本の一部であるかということにつき確定的なことを述べるのは困難であるが、遅くとも明治初期の琉球藩の設置及びこれに続く沖縄県の設置のときには日本国の一部であったことは確かであると
琉球処分、御案内のとおり、一八七九年に琉球藩を沖縄県にいたしました。廃藩置県によるものであります。その前に、一八七二年に琉球藩を明治政府は設定をして、その七年後に沖縄県の設置をしたわけです。 この処分が実は国際法、不正、違法なんじゃないかと、こういったキャンペーンが行われているんです。
○国務大臣(岸田文雄君) まず、委員の御指摘の中で、琉球処分につきましては様々な見解があるとは承知していますが、一般に、明治初期の琉球藩の設置及びこれに続く沖縄県の設置の過程を示す言葉として用いられている、このように承知をしています。
それは、近代沖縄史をめくると、一八七九年、明治十二年の、琉球藩を廃し沖縄県を置く、いわゆる強権発動による琉球処分が行われ、それ以降、苦難の歴史が刻まれております。 一九四五年の太平洋戦争では捨て石にされ、住民を巻き込んだ悲惨な地上戦が繰り広げられた。沖縄は、そのときも本土防衛の犠牲となり、県民四人に一人が戦死し、日米の軍人も合わせると二十万人以上の人命が失われました。
まず最初は、勅命により琉球を琉球藩とし、薩摩藩の附属国を廃して日本国政府直属とし、次に、琉球藩を解体して沖縄県を設置するという段階的な方法で臨みます。 もちろん、その手続に当たっては全く民意を問いませんし、むしろ、琉球処分官と軍隊の武力を背景に、強権的に廃藩置県を布告して日本に編入いたします。このため、県民はこれを第一次琉球処分と称し、県民の胸に深く刻んでまいりました。
○野田内閣総理大臣 まず、一六〇九年というのは琉球が薩摩藩の支配下に入ったという年、それから一八七九年というのは、これは廃藩置県の関連で、いわゆる琉球処分と言われている、琉球藩が廃止をされた、そういうことがあったということだと思います。 いろいろな曲折がある中で、沖縄が日本となり、その後、米軍に占領された後に沖縄の返還があり等々で、いろいろな曲折がございました。
一六〇九年に薩摩藩によって武力征服され、一八七九年の琉球処分ともいうべき廃藩置県によって琉球王朝、琉球藩は消滅します。 琉球、沖縄は、天皇制から見ますと、おくれてきた臣民であり、化外の民であり、天皇の支配に属さない、服従しない、まつろわぬ民でありました。
私は琉球藩のものであったと思います。 きょう、「尖閣列島わったーもの」、こういう歌の歌詞を配付しました。パネルで一番だけ表示をしてございます。作詞をしたのは、元沖縄大学学長の新屋敷幸繁先生、作曲は、自称コザ独立共和国大統領、照屋林助、残念ながら、同じ照屋ですが、私の父親ではございません。パネルの方言訳は私がやりました。
外務大臣は、一八九五年の一月十四日に我が国の領土に編入される以前は、尖閣諸島は中国のものだったというお考えか、いやいや、琉球藩のものであったに違いない、こういうお考えでしょうか、どちらかお答えください。
そしてさらに、いわゆる明治政府が樹立したことによって、廃藩置県で琉球藩がお取り壊しになった。それによって、文字どおり琉球が王国としてはなくなってしまったということ。そしてさらに、もう一つ加えるのであれば、一番近々は、一九七二年の祖国復帰なんですね。
その琉球王国を廃止して琉球藩を設置し、沖縄県を設置していくという一連の流れ、琉球処分と言っておりますけれども、これは明治政府と清国との間に厳しい外交交渉が続いていたわけですけれども、そのさなかに台湾出兵をやり、強引に琉球王国を廃止して琉球藩を設置し、設置した翌年に、何と琉球藩に対して日の丸を七本持ってきておるのですね。メモを後でごらんください。
日本はそれよりもずっと以前から固有の領土であると主張している根拠をかいつまんで申せということでございますが、これは御承知のように一八七九年、つまり明治十二年でございますが、明治政府が琉球藩を廃止いたしまして沖繩県を設置いたしまして、その後一八八五年、つまり明治十八年以来十年間もかけまして数回にわたって、設置いたしました沖繩県当局を通じていろいろと実地調査をいたしまして、尖閣諸島が当時の清国に所属する
その後、当初琉球藩は外務省の管轄化にあったそうでありますが、やがてこれ々内務省に移した。当時の内務卿は大久保利通だったそうでありますが、琉球処分案を作成いたしました。いわゆる第二次琉球処分というものをこの沖繩にしいたといわれております。琉球藩を廃し、沖繩県を置く、そうして県庁は首里に置くということを最終的に処分決定いたしましたのは、明治十二年三月十一日といわれています。
明治維新に際しまして本土では藩を廃して県を置き中央政府が確立されましたが、琉球は明治五年統合され琉球藩を置かれましたが、明治十二年には藩を廃して沖縄県となり、ここで完全に他の府県と同様に日本の一地方となつたのであります。爾来今日まで七十有余年もはや日本国民として渾然融和し、国民としての権利も義務も平等であり、個人的にも地方的にも何の差別もなく日本国民としての矜持を持つて来たのであります。